好きなものを好きでいるために、誰かの許可が必要なのだと思っていた。
*
オープンキャンパスへ行った翌朝、岸本沙波は大学のパンフレットを机の上に並べたまま、椅子の背にもたれて昨日のことを思い返していた。
母が言っていた通り、悪い大学ではなかった。駅から近く、校舎は明るく、高校とは比べものにならない蔵書を抱えた図書館には、できることなら一日籠もっていたいと思った。案内役の学生たちはそれぞれの大学生活を楽しそうに語り、試しに受けてみた模擬授業も予想していたより面白かったし、母が密かに楽しみにしていた学食では、安い値段で温かい定食まで食べられた。
帰りの電車で母から感想を尋ねられた時、沙波は素直に「よかった」と答えている。
「よかった」という感想に嘘はなかったが、だからといって「ここへ行きたい」と思ったわけでもなかった。
以前の自分なら、その二つをほとんど同じものとして扱っていただろう。悪くない大学で、母も安心しており、今の成績なら努力次第で手が届く。それだけの条件が揃っているのだから第一志望に書けばよいと、考えることをそこで終わらせていた気がする。
けれど今は、もう少し知ってから決めたかった。
大学へ行くのか、行くとすれば何を学びたいのか、昨日訪れた場所をこれから好きになるのか、それともまだ知らない場所へ心が動くのか。問いを増やしただけで、答えは一つも出ていなかった。
答えの出ない時間が続くことへの焦りは、今も消えていない。それでも、急いで空欄を埋めることと、自分の将来を考えることは違うのだと、ようやく分かり始めている。
机の上のパンフレットを一冊閉じたところで、脇へ置いていたスマートフォンが震えた。
クラスのグループチャットに、新しいメッセージが届いている。
《夏祭りどうする?》
《来週だよね》
《浴衣着る人ー?》
《去年めっちゃ混んでたよね笑》
数秒おきに通知が増えていく画面を眺めながら、沙波は親指を止めた。
以前なら、誰が何と答えているのか気になって、会話が途切れるまで画面を追っていただろう。自分に直接関係のない話題であっても、知らないうちに何かが決まり、自分だけが取り残されることが怖かった。
沙波はグループの設定画面を開き、通知を切った。
指先一つで終わることなのに、急に部屋が静かになったような気がする。
誰かから直接呼ばれたのなら、あとで開けば分かる。会話へ入りたいと思った時には自分から読めばよく、何十分も流れ続ける通知をすべて受け取らなければ友達でいられないわけでもない。
沙波はスマートフォンを伏せ、好きなものを書き留めているノートを開いた。
少し考えてから、
――通知の鳴らない時間。
と書き足してみる。
好きな「もの」と呼ぶには妙な気もしたが、このノートにはもう、飲み物や本だけではなく、好きな時間や過ごし方まで並んでいる。
誰に提出するものでもないのだから、分類などしなくてよかった。
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オープンキャンパスへ行った翌朝、岸本沙波は大学のパンフレットを机の上に並べたまま、椅子の背にもたれて昨日のことを思い返していた。
母が言っていた通り、悪い大学ではなかった。駅から近く、校舎は明るく、高校とは比べものにならない蔵書を抱えた図書館には、できることなら一日籠もっていたいと思った。案内役の学生たちはそれぞれの大学生活を楽しそうに語り、試しに受けてみた模擬授業も予想していたより面白かったし、母が密かに楽しみにしていた学食では、安い値段で温かい定食まで食べられた。
帰りの電車で母から感想を尋ねられた時、沙波は素直に「よかった」と答えている。
「よかった」という感想に嘘はなかったが、だからといって「ここへ行きたい」と思ったわけでもなかった。
以前の自分なら、その二つをほとんど同じものとして扱っていただろう。悪くない大学で、母も安心しており、今の成績なら努力次第で手が届く。それだけの条件が揃っているのだから第一志望に書けばよいと、考えることをそこで終わらせていた気がする。
けれど今は、もう少し知ってから決めたかった。
大学へ行くのか、行くとすれば何を学びたいのか、昨日訪れた場所をこれから好きになるのか、それともまだ知らない場所へ心が動くのか。問いを増やしただけで、答えは一つも出ていなかった。
答えの出ない時間が続くことへの焦りは、今も消えていない。それでも、急いで空欄を埋めることと、自分の将来を考えることは違うのだと、ようやく分かり始めている。
机の上のパンフレットを一冊閉じたところで、脇へ置いていたスマートフォンが震えた。
クラスのグループチャットに、新しいメッセージが届いている。
《夏祭りどうする?》
《来週だよね》
《浴衣着る人ー?》
《去年めっちゃ混んでたよね笑》
数秒おきに通知が増えていく画面を眺めながら、沙波は親指を止めた。
以前なら、誰が何と答えているのか気になって、会話が途切れるまで画面を追っていただろう。自分に直接関係のない話題であっても、知らないうちに何かが決まり、自分だけが取り残されることが怖かった。
沙波はグループの設定画面を開き、通知を切った。
指先一つで終わることなのに、急に部屋が静かになったような気がする。
誰かから直接呼ばれたのなら、あとで開けば分かる。会話へ入りたいと思った時には自分から読めばよく、何十分も流れ続ける通知をすべて受け取らなければ友達でいられないわけでもない。
沙波はスマートフォンを伏せ、好きなものを書き留めているノートを開いた。
少し考えてから、
――通知の鳴らない時間。
と書き足してみる。
好きな「もの」と呼ぶには妙な気もしたが、このノートにはもう、飲み物や本だけではなく、好きな時間や過ごし方まで並んでいる。
誰に提出するものでもないのだから、分類などしなくてよかった。


