夏にほどける

 夜、自室で好きなもののノートを開き、沙波はしばらく考えてから新しい一行を書いた。

 ――知らないものを、一度見に行ってみること。

 少し長くなった一行を読み返して笑った。好きなのかどうかはまだ分からないまま、それでも消さずに、その下へもう一つ書き足す。

 ――お母さんの卵焼き。

 と書き加える。
 昨日喧嘩したからといって、今日から母の作るものまで嫌いになるわけではない。
 むしろ、朝食で何も言わず皿へ載せられていた卵焼きを食べた時、いつもの味がして少し安心した。
 昨日あれほどぶつかった母の卵焼きは、今朝もいつもの味だった。その事実だけで、意見が違うことと嫌いになることは同じではないのだと、沙波には十分だった。

 沙波はペンを置き、窓の外へ目を向けた。
 夜空には雲があり、月の半分ほどが隠れている。
 見えないところにも月はある。そんなことを考えてから、少し気恥ずかしくなった。
 瑠夏なら小説に書きそうだと思ったからだった。

 スマートフォンを手に取り、メッセージ画面を開く。

《お母さんと話しました》

 送ると、しばらくして返事が届いた。

《どうだった?》
《まだ大学行くか決まってません》

 少し考えてから、《でも日曜にオープンキャンパス行ってきます》と続ける。

《いいね》

 瑠夏からは《いいね》とだけ返ってきて、沙波は画面を見ながら笑った。

《大学行った方がいいって思ってません?》

 少しして、

《思ってないよ》
《行かない方がいいとも?》
《思ってない》
《本当に何も決めてくれないですね》

 今度は返信まで少し時間があった。

《沙波の人生だからね》

 沙波はしばらく画面を見つめた。当たり前のはずの言葉なのに、「自分の人生」として引き受けることには温かさと同じくらい怖さがあった。

 親に育ててもらい、学校へ通い、先生に教えられ、友達と同じ時間割の中で生きてきた。それでも最後にどの道を歩くのか、その先で何を好きになり、何を諦めるのかまで、誰かへ預けることはできない。

 自分で選べば、失敗した時に誰かのせいにはできない。
 けれど、誰かに選んでもらったとしても、その人生を生きるのは結局自分だった。

 沙波は進路希望調査を手に取った。第一志望は今日も空白のままだったが、以前のように、その白さを見るだけで焦ることはなかった。
 今夜はそこへ、無理に大学名を書こうとは思わなかった。
 代わりに紙の余白へ、提出する時には消さなければならないほど小さな字で、ひとことだけ書いた。

 ――まだ分からない。それは提出欄を埋める答えにはならなくても、今の自分についてなら嘘ではなかった。