夏にほどける


「僕?」
「はい。その、倒れているのかと思って」

 口にした途端、どうやら勘違いだったらしいことが恥ずかしくなり、沙波は少し視線を逸らした。
 彼は自分が寝転んでいた芝生を見下ろし、ようやく事情を理解したのか、身体を起こしてシャツについた草を払った。

「ごめん。心配させたんだね」
「いえ、大丈夫ならいいんですけど」
「空を見てただけだから」
「……空を?」
「うん。今日は雲がよく見えるから」

 彼につられて顔を上げる。
 抜けるような青空の中で、大きな入道雲が光を含んで膨らんでいた。陽の当たるところは白く眩しく、厚みのある下の方だけが青灰色を帯び、その背後にはさらに深い青が広がっている。

「ずっと見てたんですか?」
「二十分くらいかな。時計を見てないから、たぶんだけど」
「二十分も?」

 思わず聞き返すと、彼は気を悪くした様子もなく笑った。

「空を眺めたら、どんな気持ちになるのか知りたかったんだ」

 沙波には意味が分からず、少し間を置いてから聞き返した。

「自分が、ですか?」
「そう。見てみないと分からないから」
「……ちょっと変わってますね」

 言ってから、失礼だったかもしれないと思った。けれど彼は眉を寄せるでもなく、「そうかもしれない」と答えただけだった。
 その受け止め方が意外で、沙波の方が次の言葉に困る。

「何かあったんですか?」
「何かって?」
「空を見ようと思うようなことが」
「ああ。小説を書いていて」

 そこまで口にしたところで、彼は一瞬だけ迷ったように見えた。

「登場人物が空を見る場面があるんだけど、僕は最近まともに空を見た記憶がなかったから、書いても嘘っぽいなと思って。それで、実際に見てた」
「小説を書くんですか?」
「うん」
「小説家?」
「それだったら格好よかったんだけどね。大学生だよ」

 彼は苦笑しながら、リュックの脇へ置いてあった細身のノートパソコンを軽く示した。

「趣味で書いてる。今のは新人賞へ出してみようと思ってるけど、まだ全然途中」

 趣味、と言うまでにほんの少し間があったことを、沙波は何となく覚えた。
 小説を書く人と知り合ったことはない。クラスに本を読む子はいるし、漫画を描くのが好きな子もいたが、何万字もある話を自分で考えて、新人賞へ出そうとしている同世代に近い人は初めてだった。

「それで、何か分かりました?」
「まだ分からない」
「二十分も見てたのに?」
「うん。見た時間と答えが出る速さは、あんまり関係ないみたい」

 少し情けなさそうに言われ、沙波は笑った。

「大変ですね、小説って」
「僕が勝手に難しくしてるだけかもしれないけど」

 男は膝を立てて座り直し、また空を見上げた。

「君も見る?」
「私も?」
「僕には一個しか頭がないから、ほかの人にどう見えるのかは分からないし」
「でも、私、小説は書かないですよ」
「空を見るのに、書く予定はいらないでしょう」

 当たり前のことを言われているだけなのに、その言い方が可笑しくて、沙波は少し笑った。
 彼からいくらか距離を空け、芝生へ腰を下ろす。
 寝転ぶところまでは真似できず、両手を後ろについて顔を上げた。

 見上げた先には青い空と白い雲があるだけで、最初のうちは、それ以上のことを何も思わなかった。