夏にほどける

 帰宅すると、母は居間で洗濯物を畳んでいた。
 テレビはついていたが、音量は小さく、番組の内容はほとんど耳へ入らない。

「ただいま」
「おかえり」

 返事はあった。それだけで、昨日よりは少し安心できた。
 沙波は鞄を置き、自室へ戻りかけたものの、廊下の途中で足を止めた。
 今日話さなければまた先延ばしにすると思い、沙波は居間へ戻った。

「お母さん」
「何?」

 母は畳んでいたタオルから顔を上げた。

「昨日、ごめん」

 母の手が止まる。

「言い方、きつかったと思う。お母さんが心配してくれてるのも分かってるのに、怒ってるみたいに言ったから」
「……うん」
「でも」

 沙波は一度息を整えた。

「普通って誰の普通なんだろうって思ってることは、今も変わらない」

 母の表情が少し強張ったが、沙波はそこで言葉を止めなかった。

「お母さんの人生が普通だから嫌だって言いたいんじゃないよ。お母さんが今の人生を幸せだと思ってるなら、それはすごくいいことだと思うし、私を産んでよかったと思ってくれてるのも嬉しい」

 母は黙っている。

「ただ、私が同じ道を選ぶかどうかは、まだ分からない。大学も、行かないって決めたわけじゃない。でも、行く理由も自分でちゃんと考えたい」
「……それで、間に合うの?」
「分からない」

 昨日なら、その答えを口にするのが怖かった。
 今日は言えた。

「でも、調べる。大学も見るし、ほかにどんな道があるのかも調べる。それで、大学に行きたいと思ったら行く」
「行きたいと思わなかったら?」
「その時は、また考える」

 母はしばらく沙波を見ており、怒るのかと思ったが、返ってきたのは別の言葉だった。
 ところが母は、膝の上のタオルを畳み直しながら、小さく息を吐いただけだった。

「お母さんには、よく分からない」

 母の「よく分からない」という返事に、沙波は少し胸が痛んだ。

「うん」
「でも、沙波が何も考えないで言ってるわけじゃないことは、昨日より分かった」

 母はそう言って、視線を落とす。

「お母さんも、普通って言いすぎたのかもしれないね」

 沙波はすぐに否定しなかった。
 ここで「そんなことない」と言えば、また母を安心させるために自分の気持ちを隠すことになる。

「……私も、普通が嫌なわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。普通に幸せだったら、それが一番いいのかもしれない。でも、自分にとっての普通が何なのか、まだ分からないだけ」

 母は少しだけ笑った。

「難しいこと考えるようになったね」
「私も、面倒だと思ってる」
「前はもっと楽だったのにね」
「うん」

 二人とも少し笑ったものの、完全に分かり合えたわけではない。
 母は今も、大学へ進んだ方がよいと思っているだろうし、沙波も進路を決められていない。
 それでも、昨日のように互いの言葉を押し返すだけではなくなっていた。

「日曜日のオープンキャンパス、どうする?」

 沙波は考えた。
 昨日までは、母に決められた予定のように感じていた。
 今は少し違う。大学が自分に合うのかを確かめるため、自分で見に行く。
 それなら、行ってみたいと思った。

「行く」
「本当に?」
「うん。見てから考えたい」

 母の顔が安堵したように緩みかけたため、沙波はその前に続きを口にした。

「でも、行ったからそこを第一志望にするとは限らないよ」
「分かってるわよ」

 母は少し呆れたように笑う。

「見学くらい、好きに見てきなさい」
「お母さんも行くんでしょう?」
「私は付き添い。学食くらい食べたいけど」
「それが目的じゃない?」
「少しはね」

 昨日までの張り詰めたものが、ようやく緩んだ。
 沙波は母の隣へ座り、畳まれていない洗濯物へ手を伸ばした。
 二人でタオルを畳みながら話しても結論は出なかったが、今はそのままでもよかった。