「私、大学行かなくてもいいと思いますか」
沙波は瑠夏を見た。たぶん、ずっと誰かに聞きたかったことだった。
誰か一人くらい、「行かなくてもいい」と言ってくれたら楽になるのではないかと思っていた。
「大学に行ってもいいんじゃない」
思っていたのとは逆の答えだった。
「……瑠夏さんまで?」
「沙波が行きたいなら」
「私は、それが分からないって言ってるんです」
「うん。だから、行きたくないなら行かなくてもいいと思う」
「どっちなんですか」
「どっちでも」
沙波は思わず眉を寄せた。
「それ、答えになってないです」
「答えを出してないからね」
「私、ちゃんと相談してるんですけど」
「分かってる」
「じゃあ――」
「僕に決めてほしい?」
以前にもよく似たことを言われたはずなのに、今回は素直に受け取ることができなかった。
「でも、何か言ってほしい時だってあります」
「あると思う」
「だったら教えてくださいよ。瑠夏さんは大学に行ってるんだから、行ってよかったのかとか、行かなくても何とかなるのかとか」
「僕のことなら話せるよ」
「じゃあ話してください」
瑠夏は少し困ったように笑った。
「僕は、今の大学に行ってよかったと思う時もある。授業が面白い日もあるし、東京に出たから会えた人もいる。逆に、思ってたのと違うなって感じることもあるし、別の道でもよかったかもって思う日もある」
「それじゃ、やっぱり分からないじゃないですか」
「うん」
「私はどうすればいいんですか」
声が少し強くなったものの、瑠夏は怒らなかった。
「沙波が決めるしかないんだと思う」
「それができないから聞いてるのに」
「じゃあ今は、決められないってことなんじゃない?」
沙波は黙った。逃げ道を塞がれるような答えではなかったから、反論の行き先も見つからなかった。
むしろ反対に、答えを出さなくてもよいと言われた。
それでも安心できない。
「決められないまま、締切が来たらどうするんですか」
「その時は、その時の沙波が今ある情報で決めるしかないんじゃないかな」
「間違えたら?」
「間違えるかもしれない」
瑠夏は淡々と答える。
「大学へ行って後悔するかもしれないし、行かなくて後悔するかもしれない。どっちを選んでも、選ばなかった方がよく見える時くらいあると思う」
「それ、怖くないですか」
「怖いよ」
「なのに、どうしてそんなに平気そうなんですか」
瑠夏は少し黙り、池の水面へ目を向けた。
「平気じゃないからかな」
「どういうこと?」
「絶対に間違えない選択があると思ってたら、それを探さないといけないでしょう。でも僕は、たぶんそんなもの分からないと思ってるから」
風が吹き、水面が細かく揺れる。
「失敗した時に、そこで人生が終わるわけじゃないなら、そのあと考えてもいいんじゃないかな」
沙波は瑠夏を見る。
「大学を間違えても?」
「辞めるかもしれないし、別のところへ行くかもしれない。そのまま卒業して、全然関係ない仕事をするかもしれない」
「就職に失敗しても?」
「転職する人だっているでしょう」
「夢が見つからなかったら?」
「見つからないまま生きる人もいるんじゃない?」
瑠夏はそこで笑った。
「僕だって、十年後も小説書いてるか分からないよ」
「好きなのに?」
「好きでも、人生の全部が思い通りになるとは限らないでしょう」
瑠夏は、好きなものを選べば必ずうまくいくと言っているわけではなかった。むしろ迷いも失敗もあると知った上で、それでも今書きたいから書いている。
未来を楽観しているから、自分の好きなものを選べるわけでもないらしい。
「じゃあ、瑠夏さんはどうして書くんですか」
「今、書きたいから」
「今だけ?」
「今の僕が決められるのは、今のことくらいだから」
沙波は答えなかった。
十七歳の自分は、二十七歳の自分が何を望んでいるのか知らない。知らないのに、十年後まで困らない道を今選ばなければならないと思っていた。
もちろん、将来のことを考える必要がないわけではない。大学の費用も、就職も、生活も、現実には無視できない。
それでも未来を考えることと、未来の正解を決めることは、同じではないのかもしれない。
「……お母さんに謝った方がいいですよね」
沙波が言うと、瑠夏は少し首を傾けた。
「何について?」
「傷つけたこと」
「それなら謝ってもいいんじゃない」
「でも、『普通って誰の普通なの』って言ったことまで謝ったら、私が思ったことも間違いだったみたいになります」
「じゃあ、それは謝らなければいいでしょう」
「そんな分け方していいんですか」
「どうして駄目なの? 両方言えばいいんじゃない」
「また喧嘩になるかもしれません」
「なるかもね」
「瑠夏さん、ほんとに安心させてくれないですね」
「嘘ついて安心させるよりいいでしょう」
沙波は笑いそうになり、でも笑い切れなかった。
「私、お母さんに嫌われたくないんです」
初めて口にしたせいか、声は思っていたよりも弱くなった。
「友達にも嫌われたくないし、先生にも困った子って思われたくない。だからずっと、みんながいいっていうものを選んできたのかもしれない」
瑠夏は黙って聞いている。
「お母さんが好きだから、お母さんが安心する人生を選びたい気持ちもあるんです。でも、それで後悔したら、お母さんのせいにしそうで……それも嫌」
池の向こうで、水鳥が羽を動かした。
「沙波」
「はい」
「お母さんの言う通りにすることも、沙波が選んだなら沙波の選択なんじゃないかな」
沙波は顔を上げる。
「親と違う道を選ぶことだけが、自分で選ぶってことじゃないと思う」
胸の奥が静かに揺れ、沙波は「大学へ行く」という選択を、初めて自分の側から眺め直していた。
それを選べば、また人の言いなりになったことになるような気がしていた。
けれど違う。親が薦めたものでも、自分で考えた末に同じものを選ぶなら、それは自分の選択になる。
「普通を選んでもいいってことですか」
「沙波がそれを好きなら」
「普通じゃない方を選んでも?」
「沙波がそれを選びたいなら」
「……やっぱり、答えになってない」
沙波が言うと、瑠夏は笑った。
「だから、答えないって言ってるでしょう」
今度は沙波も笑った。
沙波は瑠夏を見た。たぶん、ずっと誰かに聞きたかったことだった。
誰か一人くらい、「行かなくてもいい」と言ってくれたら楽になるのではないかと思っていた。
「大学に行ってもいいんじゃない」
思っていたのとは逆の答えだった。
「……瑠夏さんまで?」
「沙波が行きたいなら」
「私は、それが分からないって言ってるんです」
「うん。だから、行きたくないなら行かなくてもいいと思う」
「どっちなんですか」
「どっちでも」
沙波は思わず眉を寄せた。
「それ、答えになってないです」
「答えを出してないからね」
「私、ちゃんと相談してるんですけど」
「分かってる」
「じゃあ――」
「僕に決めてほしい?」
以前にもよく似たことを言われたはずなのに、今回は素直に受け取ることができなかった。
「でも、何か言ってほしい時だってあります」
「あると思う」
「だったら教えてくださいよ。瑠夏さんは大学に行ってるんだから、行ってよかったのかとか、行かなくても何とかなるのかとか」
「僕のことなら話せるよ」
「じゃあ話してください」
瑠夏は少し困ったように笑った。
「僕は、今の大学に行ってよかったと思う時もある。授業が面白い日もあるし、東京に出たから会えた人もいる。逆に、思ってたのと違うなって感じることもあるし、別の道でもよかったかもって思う日もある」
「それじゃ、やっぱり分からないじゃないですか」
「うん」
「私はどうすればいいんですか」
声が少し強くなったものの、瑠夏は怒らなかった。
「沙波が決めるしかないんだと思う」
「それができないから聞いてるのに」
「じゃあ今は、決められないってことなんじゃない?」
沙波は黙った。逃げ道を塞がれるような答えではなかったから、反論の行き先も見つからなかった。
むしろ反対に、答えを出さなくてもよいと言われた。
それでも安心できない。
「決められないまま、締切が来たらどうするんですか」
「その時は、その時の沙波が今ある情報で決めるしかないんじゃないかな」
「間違えたら?」
「間違えるかもしれない」
瑠夏は淡々と答える。
「大学へ行って後悔するかもしれないし、行かなくて後悔するかもしれない。どっちを選んでも、選ばなかった方がよく見える時くらいあると思う」
「それ、怖くないですか」
「怖いよ」
「なのに、どうしてそんなに平気そうなんですか」
瑠夏は少し黙り、池の水面へ目を向けた。
「平気じゃないからかな」
「どういうこと?」
「絶対に間違えない選択があると思ってたら、それを探さないといけないでしょう。でも僕は、たぶんそんなもの分からないと思ってるから」
風が吹き、水面が細かく揺れる。
「失敗した時に、そこで人生が終わるわけじゃないなら、そのあと考えてもいいんじゃないかな」
沙波は瑠夏を見る。
「大学を間違えても?」
「辞めるかもしれないし、別のところへ行くかもしれない。そのまま卒業して、全然関係ない仕事をするかもしれない」
「就職に失敗しても?」
「転職する人だっているでしょう」
「夢が見つからなかったら?」
「見つからないまま生きる人もいるんじゃない?」
瑠夏はそこで笑った。
「僕だって、十年後も小説書いてるか分からないよ」
「好きなのに?」
「好きでも、人生の全部が思い通りになるとは限らないでしょう」
瑠夏は、好きなものを選べば必ずうまくいくと言っているわけではなかった。むしろ迷いも失敗もあると知った上で、それでも今書きたいから書いている。
未来を楽観しているから、自分の好きなものを選べるわけでもないらしい。
「じゃあ、瑠夏さんはどうして書くんですか」
「今、書きたいから」
「今だけ?」
「今の僕が決められるのは、今のことくらいだから」
沙波は答えなかった。
十七歳の自分は、二十七歳の自分が何を望んでいるのか知らない。知らないのに、十年後まで困らない道を今選ばなければならないと思っていた。
もちろん、将来のことを考える必要がないわけではない。大学の費用も、就職も、生活も、現実には無視できない。
それでも未来を考えることと、未来の正解を決めることは、同じではないのかもしれない。
「……お母さんに謝った方がいいですよね」
沙波が言うと、瑠夏は少し首を傾けた。
「何について?」
「傷つけたこと」
「それなら謝ってもいいんじゃない」
「でも、『普通って誰の普通なの』って言ったことまで謝ったら、私が思ったことも間違いだったみたいになります」
「じゃあ、それは謝らなければいいでしょう」
「そんな分け方していいんですか」
「どうして駄目なの? 両方言えばいいんじゃない」
「また喧嘩になるかもしれません」
「なるかもね」
「瑠夏さん、ほんとに安心させてくれないですね」
「嘘ついて安心させるよりいいでしょう」
沙波は笑いそうになり、でも笑い切れなかった。
「私、お母さんに嫌われたくないんです」
初めて口にしたせいか、声は思っていたよりも弱くなった。
「友達にも嫌われたくないし、先生にも困った子って思われたくない。だからずっと、みんながいいっていうものを選んできたのかもしれない」
瑠夏は黙って聞いている。
「お母さんが好きだから、お母さんが安心する人生を選びたい気持ちもあるんです。でも、それで後悔したら、お母さんのせいにしそうで……それも嫌」
池の向こうで、水鳥が羽を動かした。
「沙波」
「はい」
「お母さんの言う通りにすることも、沙波が選んだなら沙波の選択なんじゃないかな」
沙波は顔を上げる。
「親と違う道を選ぶことだけが、自分で選ぶってことじゃないと思う」
胸の奥が静かに揺れ、沙波は「大学へ行く」という選択を、初めて自分の側から眺め直していた。
それを選べば、また人の言いなりになったことになるような気がしていた。
けれど違う。親が薦めたものでも、自分で考えた末に同じものを選ぶなら、それは自分の選択になる。
「普通を選んでもいいってことですか」
「沙波がそれを好きなら」
「普通じゃない方を選んでも?」
「沙波がそれを選びたいなら」
「……やっぱり、答えになってない」
沙波が言うと、瑠夏は笑った。
「だから、答えないって言ってるでしょう」
今度は沙波も笑った。


