夏にほどける

 その夜、父が帰宅してからも、食卓の空気はいつもとは違っていた。
 母から話を聞いたのだろう。父は夕食の途中で一度だけ沙波へ目を向け、「進路のことで話したんだって?」と尋ねた。

「うん」
「大学へ行かないと決めたのか」
「決めてない。行くとも、まだ決めてないだけ」

 父は味噌汁の椀を置き、少し考えた。

「そうか」

 母より穏やかな反応だったことに沙波が安堵しかけると、父は続ける。

「ただ、大学へ行かないなら、その先を考えてからにしなさい。今の時代、大卒が絶対とは言わないけど、選べる仕事が狭くなる可能性はある。そのリスクまで分かった上で選ぶなら、お父さんは止めない」
「……うん」
「でも、何となく行きたくない程度なら、進学しておいた方がいいと思う」
「分かった」

 これも正論だった。
 父は沙波を責めず、選択肢とリスクの話をしている。それなのに、自分の中にあるものは晴れなかった。

「それと、お母さんも心配してるだけだから、そこは分かってやって」

 沙波は思わず箸を止めた。

「分かってるよ」
「ならいいけど」

 父に悪意などない。それでも、なぜ自分だけが母の気持ちを分かる側へ回らなければならないのだろうという反発が、一瞬だけ胸を掠めた。
 そんな自分が嫌になった。母も父も沙波のために考えてくれていて、愛されていることには疑いようがないからこそ、苦しさをうまく誰かのせいにはできなかった。
 だから、息苦しいと思う自分の方が間違っているような気がする。

「ごちそうさま」

 食事を終えて自室へ戻ると、机には進路希望調査と、好きなものを書き留めたノートが並んでいた。
 二つを見比べていると、泣きたいわけでもないのに目が熱くなった。

 自分で選びたい――そう思い始めただけなのに、現実では誰かを傷つけることもあるらしい。
 けれど、自分で選ぶということは、自分を大切にしてくれる人の望みと違う方向へ行く可能性まで引き受けることなのだと、今日初めて知った。

 誰にも迷惑を掛けず、誰も傷つけず、それでも自分の好きな道を選べるのなら簡単なのだろう。
 それなら、これまで通り「分かった」と頷いていた方が、家族みんなが穏やかでいられたのかもしれない。

 沙波はノートを開いて好きなものの並ぶ頁を眺めたが、今夜は何も足す気になれなかった。
 代わりにスマートフォンを取り、瑠夏とのメッセージ画面を開く。
 連絡先を交換したのは、前回図書館で会った時だった。

《明日、図書館行きますか》

 そこまで打って、送ることを躊躇った。
 自分から会いたいと伝えるようで、少し恥ずかしい。
 それでも今は瑠夏と話したくて、沙波は文字を消さずに送信した。十分ほどして、返信が届く。

《行くよ。午後ならいると思う》

 返ってきたのはそれだけで、「何かあったの」と追及されることもなかった。沙波は画面を見ながら、張っていた息をゆっくり吐いた。


 翌日の午後、図書館へ着くと、瑠夏は二階の閲覧席ではなく、一階奥の窓際で本を読んでいた。
 沙波を見つけると栞を挟み、席を立つ。

「沙波、こんにちは」
「こんにちは」
「今日は本?」
「……話したいことがあります」

 それだけで、瑠夏は何かを察したらしい。

「じゃあ外行こうか。ここだと喋れないから」

 二人は図書館を出て、近くの公園へ向かった。
 最初に会った芝生広場ではなく、池の脇にある木陰のベンチへ腰を下ろす。
 昼を過ぎても暑さは厳しいが、水辺から吹いてくる風には少し涼しさがあった。

「昨日、お母さんと喧嘩しました」

 沙波が切り出すと、瑠夏は驚いた様子を見せずに聞いている。

「進路のこと?」
「はい」

 沙波は昨日の出来事を順に話した。
 母がオープンキャンパスへ一緒に行こうと言ったこと。
 大学へ行かないかもしれないと告げたこと。大学へ行かないなら何をするのかと尋ねられ、何も答えられなかったこと。そして、普通でいいと言われたこと。

「それで私、『その普通って誰の普通なの』って言っちゃって」
「うん」
「お母さん、傷ついたと思います」
「沙波も?」
「え?」
「傷ついた?」

 考えていなかった問いに、沙波は池へ視線を向けた。

「……分かりません」
「そっか」
「お母さんは悪くないんです。私に幸せになってほしいだけで、大学に行った方がいいっていうのも、たぶん正しいし」
「うん」
「父にも、大学へ行かないならその後まで考えてから選べって言われました。それも正しいと思います」

 瑠夏は口を挟まずに聞いている。

「みんな正しいんですよ」

 言葉にした途端、昨日から胸につかえていたものに、初めて名前がついた気がした。

「お母さんも、お父さんも、たぶん先生も。言ってることは全部正しいのに、どうして私はこんなに嫌なのか分からなくて」
「嫌だったんだ」
「……嫌でした」

 大学の話そのものが嫌なのではないのだと、沙波はそこで初めて認めた。
 将来を心配されることも、本当はありがたいと思っている。
 それでも、誰かの正しい話を聞くたび、自分のまだ形になっていない気持ちが、存在しないものとして押し流されていくようで苦しかった。