夏にほどける

「行かないって決めたわけじゃないよ。ただ、どうして行くのか分からなくなっただけ」
「将来のためでしょう。大学を出ていた方が就職の選択肢だって増えるし、高卒では受けられない会社もあるのよ」
「分かってる」
「だったら、どうして?」
「それが分からないから困ってるの」

 思ったより強い声が出た。
 母は黙っている。
 沙波は後悔しかけたものの、今ここで「何でもない」と引っ込めれば、また同じところへ戻る気がした。

「みんなが大学へ行くから私も行くって、それでいいのかなと思って。お父さんとお母さんが行った方がいいって言うから、それを書くだけでいいのかなって」
「私たちは、沙波に困ってほしくないから言ってるのよ」
「それも分かってるよ」
「じゃあ、何が嫌なの?」

 「嫌」と問われた途端、沙波は答えられなくなる。
 大学が嫌いなわけでも、勉強から逃げたいわけでも、両親の言うことに逆らいたいわけでもない。

「嫌なのかどうかも、まだ分からない」

 ようやく出した答えを聞き、母の眉間に困惑の色が浮かんだ。

「沙波、最近ちょっと考えすぎじゃない?」
「そうかな」
「高校生のうちから何もかも分かってる人なんていないのよ。やりたいことがないなら、大学へ行きながら考えればいいじゃない。その方が時間もあるでしょう」
「うん」
「大学へ行ったら友達だって増えるし、いろんなことも経験できる。そこで好きなことが見つかるかもしれないし、仕事だって選びやすくなるんだから」

 母の言葉には、一つ一つ筋が通っている。
 沙波を言い負かそうとしているのではなく、本気で娘のためになると思って話していることも分かっていた。

 それが、苦しかった。
 間違っている人なら、違うと言える。自分を傷つけようとする相手なら、反発することもできる。
 けれど母は、沙波を愛している。その愛情から差し出されるものを「私はいらないかもしれない」と言うことは、母自身を拒むことのように感じられた。

「お母さんはね」

 沙波が黙っているのをどう受け取ったのか、母は少し声を和らげた。

「別に、沙波にすごい人になってほしいわけじゃないの。いい大学に入って、一流企業に就職してなんて望んでない。ただ普通でいいのよ」

 また、「普通」だった。

「ちゃんと学校を出て、働いて、いい人がいたら結婚して。結婚しろって強制するつもりもないけど、できたら家族も持って。普通に暮らして、普通に幸せになってくれたら、それでいいの」

 母は笑おうとした。

「ママだって二十三でお父さんと結婚して、二十四であなたを産んだでしょう。ものすごく特別な人生じゃないけど、それで不幸だったなんて思ったことないもの。沙波にも、そういう人生で十分――」
「その普通って、誰の普通なの?」

 母の表情が止まる。
 沙波自身も、こんな言葉をぶつけるつもりではなかった。
 それでも一度外へ出たものを、もう戻すことはできない。

「どういう意味?」
「お母さんが二十三で結婚したから、私もそれくらいで結婚するのが普通なの? 大学に行って、就職して、結婚して、子どもを産むのが普通? みんなが大学へ行くから、私も行くのが普通なの?」
「そんなこと言ってないでしょう」
「でも、さっきそういう人生でいいって言ったじゃん」
「『そうしなさい』なんて言ってない。あなたが苦労しないようにって話をしてるのよ」
「苦労しないのが幸せなの?」
「どうしてそんな話になるの」

 母の声にも、少しずつ苛立ちが滲み始める。
 沙波は自分でも、どこまで何を言いたいのか分からなくなっていた。
 大学へ行くことに反対してほしいわけではない。母の人生を否定したいのでもない。
 ただ、「普通」という一つの言葉の中に、自分の知らない未来をすべて入れられてしまうことが怖かった。

「お母さんが幸せなのはいいと思う。お父さんと結婚して、私を産んだことを幸せだって思ってくれるのも嬉しいよ。でも、それがお母さんの幸せだったからって、私も同じものを選べば幸せになるとは限らないでしょう」
「じゃあ沙波は、何が幸せなの?」

 母に問われた途端、言葉が途切れ、沙波は答えられないまま黙った。
 レモンスカッシュが好きだということなら分かる。夏の空を見るのが好きで、誰かと黙っている時間が心地よいことも、以前より分かるようになった。
 けれど人生の幸福を問われれば、何も出てこない。

「……まだ、分からない」
「だったら、分かるようになるまで選択肢を残しておけばいいでしょう。そのために大学へ行った方がいいって言ってるの」
「だから、それもお母さんの答えでしょう?」

 言った瞬間、母の顔が傷ついた。
 沙波にも分かった。
 母は何も言わず、布巾を流し台の端へ置いた。

「私が何を言っても、もう聞きたくないってこと?」
「違うよ」
「じゃあ何なの。沙波が分からないって言うから、こういう道もあるって話してるだけでしょう?」
「分かってる」
「さっきから分かってる、分かってるって。それなら、どうしてそんなに怒るの?」
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃない」
「お母さんだって怒ってる」
「心配してるの!」

 キッチンに母の声が響いた。
 その直後、二人とも黙り込む。
 ここまで大きな声で母とぶつかった記憶は、沙波にはほとんどなかった。
 反抗期がなかったわけではない。中学生の頃、門限やスマートフォンの使い方をめぐって喧嘩したことはある。それでも、何か一つの価値観について、互いに引けなくなるまで話したことはなかった。

 母は流し台へ目を向けたまま、少し時間を置いてから口を開いた。

「……もういいわ。今日は」
「お母さん」
「お母さんも少し考えるから。沙波も、ただ反対するんじゃなくて、どうしたいのか考えて」
「反対したいわけじゃないよ」
「今はもう、聞けない」

 声は怒鳴った時より静かだった。その静けさの方が、沙波には堪えた。
 母は食器の残りをそのままにして、キッチンから出ていった。

 取り残された沙波は、流し台の前で動けなかった。
 追いかけて謝ればいいのだと思う一方で、さっき口にした問いそのものまで撤回することには抵抗があった。
 言い方が悪かったと伝えれば、母も話を聞いてくれるだろう。けれど、自分が言ったことそのものまで取り消したくはなかった。

 「その普通って、誰の普通なの」と言った言い方は悪かったし、母を傷つけたことも分かっている。
 それでも、問い自体は今も消えていなかった。