誰かが幸せだった道を、同じように歩けば、私も幸せになれるのだろうか。
*
夏休みも半ばへ差しかかると、机の端へ置いたままにしていた進路希望調査の紙が、沙波には日を追うごとに大きくなっていくように見えた。
実際の大きさなど、最初から変わっていない。第一志望、第二志望、興味のある学部、将来希望する職業と、あらかじめ印刷された欄も同じ場所に並んでいる。それでも夏休みに入った直後には、まだ一か月以上あるからと目を逸らせた空欄が、八月へ入った今では、そろそろ何かを書きなさいと無言で迫ってくる。
宿題なら、順調に進んでいた。
数学の問題集は半分を越え、英語の長文課題も予定したところまで終わっている。読書感想文に使う本も決め、登校日に提出するプリント類はクリアファイルへまとめた。
けれど、その紙だけには手をつけられない。
大学へ行きたくない、と明確に思っているわけではなかった。大学について調べることも始めている。母が薦めた学校のホームページを眺め、学部紹介を読み、何校かはオープンキャンパスの日程まで確認した。それでも、知れば知るほど「ここへ行きたい」という気持ちが育つのではなく、自分が何も決めていないという事実ばかりが明瞭になっていった。
文学部なら、本を読むことが好きだから多少は興味を持てるかもしれない。けれど文学を四年間学びたいのかと尋ねられれば、そこまでは分からない。社会学部の説明には面白そうな言葉が並んでいたものの、それを将来どう生かしたいのかは答えられず、経済学部や法学部に至っては、卒業後の就職先が幅広いという文章を読んだだけで画面を閉じてしまった。
何を学びたいのか分からないなら、大学へ行ってから見つければいい、と母は言った。その考えが間違っているとは思えないからこそ、「間違っていない」という理由だけで四年間を選ぶことに、以前にはなかった躊躇いが残った。
その考えが間違っているとは、沙波にも思えない。けれど、「間違っていない」という理由で四年間を選ぶことへ、以前なら感じなかった躊躇いが生まれていた。
図書館で借りた本を読み終えた日には、好きなものを書き留めるノートも少しずつ増えている。
レモンスカッシュ、桃の紅茶、夏の空、ひとりで本屋を歩くこと、夕方の図書館、友達と歌うこと、誰かと一緒に黙っている時間、雨上がりの匂い――ノートには、この夏に見つけた「好き」が少しずつ増えていた。
まだ一頁にも満たない。それでも、何を聞かれても「何でもいい」と答えていた頃より、自分の輪郭が少しだけ見えるようになった気がしていた。
ところが将来のことになると、その輪郭は途端にぼやけてしまう。
好きな飲み物や心地よい時間が分かるようになっても、それだけで進学先や職業が決まるわけではない。それでも、分からないから皆と同じものを書いておけばいい、と以前のように考えることだけはできなくなっていた。
「沙波、今度の日曜日なんだけど」
夕食の片づけを手伝っていた時、母が思い出したように声を掛けてきた。
「この前話した大学、オープンキャンパスあるでしょう。お母さん、その日パート代わってもらえたから、一緒に行けるよ」
洗った皿を布巾で拭いていた沙波は、手を止めて母を見た。
「どこの?」
「駅から電車で四十分くらいのところ。前にホームページ見せたでしょう? 学部も多いし、家から通えるからいいと思うの」
名前には覚えがあり、母に言われて一度調べた大学だった。
悪い学校だとは思わないし、通学にも困らない。偏差値も今の成績なら努力次第で十分届く範囲で、卒業後の就職率も高いと書かれていた。
だからこそ、断る理由が見つからなかった。
「……日曜日か」
「何か予定ある?」
「ないけど」
「だったら行ってみようよ。見てみるだけなら損はないんだから」
母は明るく言いながら、洗い終えたコップを水切り籠へ伏せる。
沙波は皿を拭き終え、食器棚へ戻した。
「お母さん」
「何?」
「私、大学行かないかもしれない」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。大学へ行かないと決めたわけではなく、ただ、その大学を自分が選んだ記憶がなかった。
むしろ、そんな選択をする覚悟などない。それでも「行く」と決めてもいない自分にとっては、「行かないかもしれない」という言い方の方が、今の気持ちに近かった。
母の手が止まる。
「……どういうこと?」
「まだ分かんないけど、大学に行くって決めてないっていうか」
「だって、進学するつもりだったでしょう?」
「つもりだったというより、行くものだと思ってただけで」
言いながら、自分の声が頼りなくなっていく。
母は濡れた手を布巾で拭き、沙波へ身体を向けた。
「じゃあ、大学へ行かないなら何をするの?」
予想していた質問だったのに、答えは用意できていなかった。
「まだ分からない」
「就職するの?」
「それも分からない」
「専門学校?」
「だから、まだ何も――」
「何も決まってないのに、大学に行かないかもしれないって言ってるの?」
母の口調には怒りより戸惑いの方が強く、それは当然の反応に思えた。
大学へ行かずにしたいことがあるわけではない。職業を決めたわけでも、専門的に学びたいものを見つけたわけでもない。
何もない。その状態で「大学へ行かないかもしれない」と言えば、母から見れば、せっかく開いている道を理由もなく閉ざそうとしているように見えるのだろう。
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夏休みも半ばへ差しかかると、机の端へ置いたままにしていた進路希望調査の紙が、沙波には日を追うごとに大きくなっていくように見えた。
実際の大きさなど、最初から変わっていない。第一志望、第二志望、興味のある学部、将来希望する職業と、あらかじめ印刷された欄も同じ場所に並んでいる。それでも夏休みに入った直後には、まだ一か月以上あるからと目を逸らせた空欄が、八月へ入った今では、そろそろ何かを書きなさいと無言で迫ってくる。
宿題なら、順調に進んでいた。
数学の問題集は半分を越え、英語の長文課題も予定したところまで終わっている。読書感想文に使う本も決め、登校日に提出するプリント類はクリアファイルへまとめた。
けれど、その紙だけには手をつけられない。
大学へ行きたくない、と明確に思っているわけではなかった。大学について調べることも始めている。母が薦めた学校のホームページを眺め、学部紹介を読み、何校かはオープンキャンパスの日程まで確認した。それでも、知れば知るほど「ここへ行きたい」という気持ちが育つのではなく、自分が何も決めていないという事実ばかりが明瞭になっていった。
文学部なら、本を読むことが好きだから多少は興味を持てるかもしれない。けれど文学を四年間学びたいのかと尋ねられれば、そこまでは分からない。社会学部の説明には面白そうな言葉が並んでいたものの、それを将来どう生かしたいのかは答えられず、経済学部や法学部に至っては、卒業後の就職先が幅広いという文章を読んだだけで画面を閉じてしまった。
何を学びたいのか分からないなら、大学へ行ってから見つければいい、と母は言った。その考えが間違っているとは思えないからこそ、「間違っていない」という理由だけで四年間を選ぶことに、以前にはなかった躊躇いが残った。
その考えが間違っているとは、沙波にも思えない。けれど、「間違っていない」という理由で四年間を選ぶことへ、以前なら感じなかった躊躇いが生まれていた。
図書館で借りた本を読み終えた日には、好きなものを書き留めるノートも少しずつ増えている。
レモンスカッシュ、桃の紅茶、夏の空、ひとりで本屋を歩くこと、夕方の図書館、友達と歌うこと、誰かと一緒に黙っている時間、雨上がりの匂い――ノートには、この夏に見つけた「好き」が少しずつ増えていた。
まだ一頁にも満たない。それでも、何を聞かれても「何でもいい」と答えていた頃より、自分の輪郭が少しだけ見えるようになった気がしていた。
ところが将来のことになると、その輪郭は途端にぼやけてしまう。
好きな飲み物や心地よい時間が分かるようになっても、それだけで進学先や職業が決まるわけではない。それでも、分からないから皆と同じものを書いておけばいい、と以前のように考えることだけはできなくなっていた。
「沙波、今度の日曜日なんだけど」
夕食の片づけを手伝っていた時、母が思い出したように声を掛けてきた。
「この前話した大学、オープンキャンパスあるでしょう。お母さん、その日パート代わってもらえたから、一緒に行けるよ」
洗った皿を布巾で拭いていた沙波は、手を止めて母を見た。
「どこの?」
「駅から電車で四十分くらいのところ。前にホームページ見せたでしょう? 学部も多いし、家から通えるからいいと思うの」
名前には覚えがあり、母に言われて一度調べた大学だった。
悪い学校だとは思わないし、通学にも困らない。偏差値も今の成績なら努力次第で十分届く範囲で、卒業後の就職率も高いと書かれていた。
だからこそ、断る理由が見つからなかった。
「……日曜日か」
「何か予定ある?」
「ないけど」
「だったら行ってみようよ。見てみるだけなら損はないんだから」
母は明るく言いながら、洗い終えたコップを水切り籠へ伏せる。
沙波は皿を拭き終え、食器棚へ戻した。
「お母さん」
「何?」
「私、大学行かないかもしれない」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。大学へ行かないと決めたわけではなく、ただ、その大学を自分が選んだ記憶がなかった。
むしろ、そんな選択をする覚悟などない。それでも「行く」と決めてもいない自分にとっては、「行かないかもしれない」という言い方の方が、今の気持ちに近かった。
母の手が止まる。
「……どういうこと?」
「まだ分かんないけど、大学に行くって決めてないっていうか」
「だって、進学するつもりだったでしょう?」
「つもりだったというより、行くものだと思ってただけで」
言いながら、自分の声が頼りなくなっていく。
母は濡れた手を布巾で拭き、沙波へ身体を向けた。
「じゃあ、大学へ行かないなら何をするの?」
予想していた質問だったのに、答えは用意できていなかった。
「まだ分からない」
「就職するの?」
「それも分からない」
「専門学校?」
「だから、まだ何も――」
「何も決まってないのに、大学に行かないかもしれないって言ってるの?」
母の口調には怒りより戸惑いの方が強く、それは当然の反応に思えた。
大学へ行かずにしたいことがあるわけではない。職業を決めたわけでも、専門的に学びたいものを見つけたわけでもない。
何もない。その状態で「大学へ行かないかもしれない」と言えば、母から見れば、せっかく開いている道を理由もなく閉ざそうとしているように見えるのだろう。


