夏にほどける

 交差点で二人の帰り道が分かれる。

「じゃあ、また」
「はい。また図書館で」
「沙波」
「何ですか?」

 瑠夏は少し笑った。

「今日は静かな沙波も知れてよかった」

 一瞬、意味が分からなかった。
 理解した時には、瑠夏はもう片手を上げて歩き出している。

 沙波はその背中を見送った。
 自分が静かだったことを、直さなければならないものではなく、新しく知った一面のように言われたのは初めてだった。

 夕暮れの風が髪を揺らす。
 沙波は少しだけ笑い、それから自分の家へ向かった。


 その夜、机に置いたノートを開き、これまでに書いた「好き」を読み返した。レモンスカッシュ、桃の紅茶、自分で選んだ本、夏の空に加えて、今日好きだったものとして、友人と歌った曲やフライドポテト、図書館の中庭までを書き足していく。
 瑠夏と何も話さずに過ごした時間を思い出し、沙波は少し迷ってから、もう一つ書き足した。

 ――誰かと一緒に黙っている時間。

 書き終えて眺めると、少し変なものばかり好きなのかもしれないと思ったが、誰に見せるためのノートでもない。
 自分がそう思ったのだから、それでよかった。
 その下へ、もう一つ書き足す。

 ――帰りたくなった時に、帰ること。

 これは「好きなもの」とは少し違う気もしたが、消さなかった。
 今日、カラオケから先に帰っても友人たちは怒らなかった。
 明日になれば、またグループチャットで話すだろう。

 沙波はペンを置き、スマートフォンを開いた。
 海へ行った友人からメッセージが届いている。

《今日途中で疲れてたけどほんと大丈夫?》

 以前なら《全然大丈夫!》と返していただろう。
 沙波は少し考え、
《大丈夫。今日はちょっと疲れてたから先帰った! カラオケ楽しかったよ》
 と送った。

《ならよかった! また行こ》

 それで終わった。自分が疲れていたと伝えても、相手を困らせなかった。

 沙波は画面を閉じる。いつも元気でいる必要も、いつも誰かと一緒にいる必要もない。明るく話せる日は話せばいいし、疲れた日は静かにしていてもいい。
 その程度のことを認めるまでに十七年かかったのだと思うと少し可笑しかった。

 窓の外へ目を向けると、夜空の一角に月が見えた。
 沙波は立ち上がって窓辺へ寄る。
 公園で瑠夏に会うまでは、夜の空を眺めることもほとんどなかった。空を見れば何を思うのか知りたいと、瑠夏は初めて会った日に言っていた。
 今なら、自分にも一つくらい答えられる気がする。
 今夜の空を眺めていると静かだと思ったが、その静けさを寂しいとは感じなかった。



 同じ頃、瑠夏は自室の机で、昼間には持っていなかったノートパソコンを開いていた。
 画面には、書きかけの小説が表示されている。
 何度か読み返したあと、彼は途中の一文を削除し、しばらく考えてから新しい文章を打ち込んだ。

 ーー物語の中の少女はいつも笑っていたが、それは明るいからではない。笑っていれば、誰にも理由を尋ねられずに済むと思っていたからだった。

 そこまで書いて、瑠夏の指が止まる。

 夕方、中庭のベンチで隣に座っていた沙波は、ほとんど喋らなかった。
 それでも一緒にいる時間を退屈だとは思わなかったし、無理に何かを話してほしいとも感じなかった。
 むしろ、彼女が自分の隣で安心して黙っていられることを、嬉しいと思った。

 瑠夏はその感情を文章にしようとして、まだうまく書ける気がせずに手を止めた。

 代わりに新しいページを開き、章の仮題を一つ入力する。

 ――誰かと違うままで。

 画面の上に残った言葉をしばらく眺めてから、瑠夏は静かに続きを書き始めた。