夏にほどける

 瑠夏がいるかもしれないと思ったのは、建物が見えてからだった。
 自動扉を抜け、二階へ上がる。窓際の閲覧席には何人か学生がいたが、いつもの場所に瑠夏はいなかった。
 沙波は自分が落胆したことに気づき、少し可笑しくなる。

 毎日ここへ来ると約束したわけではない。瑠夏にも予定があるのだから、いない日の方が普通なのかもしれなかった。
 一階へ戻ろうとしたところで、窓の外に人影が見えた。
 図書館の裏手には小さな中庭があり、何脚かベンチが置かれている。その一つに瑠夏が座っていた。ノートパソコンは持っておらず、膝の上には文庫本が一冊ある。

 沙波は階段を下り、中庭へ向かった。

「今日は書いてないんですね」

 声を掛けると、瑠夏が本から顔を上げる。

「沙波」

 名前を呼んだあと、彼は沙波の格好を眺めた。

「出掛けてた?」
「友達とカラオケです」
「楽しかった?」
「楽しかったですよ」
「そっか」

 それだけ言うと瑠夏が少し横へ詰めたので、座ってよいのだと受け取り、沙波は隣へ腰を下ろした。しばらくは、どちらも話さなかった。
 中庭には図書館の空調設備が動く低い音が聞こえ、植え込みでは蝉が鳴いている。建物に囲まれているため風は弱いものの、陽が傾いた分だけ昼間より過ごしやすかった。

「……何も聞かないんですね」

 沙波が言うと、瑠夏は本を閉じた。

「何を?」
「私、さっきから黙ってるので」
「話したくなったら話すかなと思って」
「機嫌悪いとか思いません?」
「思わないけど」
「どうしてですか」
「黙ってるからって、機嫌が悪いとは限らないでしょう」

 瑠夏は本を膝へ置き、沙波を見る。

「疲れてる?」

 言い当てられ、沙波は少し笑った。

「はい」
「じゃあ休んでればいいよ」
「ここで?」
「僕も本読んでるから」

 瑠夏は本当に会話を続けるつもりがないらしく再び頁を開き、沙波もベンチの背へ身体を預けた。
 誰かと一緒にいるのに、何も話さなくていい。
 図書館で初めて向かい合って本を読んだ時にも感じたが、瑠夏との沈黙には、自分が何かをしなければならないという焦りがなかった。

 沙波は目を閉じる。カラオケ店では、曲が止まっても誰かの声が聞こえていた。
 ここには蝉の声しか聞こえず、その単調な騒がしさがかえって心地よい。

「私、暗いですか」

 沙波が目を閉じたまま尋ねると、本の頁をめくる音が止まった。

「どうしたの、急に」
「友達といる時、黙ってると心配されるんです。今日も少し疲れて休んでたら、どうしたのって聞かれて」
「心配してくれたんじゃない?」
「分かってます」

 友人を責めたいわけではないのだと自分に確かめるように、沙波は目を開けて夕暮れの空を見上げた。

「でも、私が黙ってると、何かあったと思われるんですよね。だから話してた方が楽というか……違うな。相手を困らせないというか」
「沙波自身は?」
「何がですか」
「話したいの?」

 答えるまでに時間がかかった。

「話したい時もあります」
「うん」
「でも、黙っていたい時もあります」
「じゃあ黙ってれば?」

 予想していたとはいえ、あっさり返されると困ってしまう。

「それができたら悩んでません」
「どうしてできないんだろうね」
「暗いって思われるからです」
「暗いと駄目なの?」

 沙波は瑠夏を見る。

「駄目じゃないですけど」
「じゃあ、何が困る?」
「……一緒にいて楽しくないって思われるとか」
「それは嫌?」
「嫌ですよ。友達なんだから」

 瑠夏は少し考えるように本の表紙を指でなぞった。