夏にほどける

 笑っている方が、誰にも心配をかけないと思っていた。

 *
 
 夏休みに入って一週間ほど経った頃、沙波は中学時代からの友人に誘われ、駅前のカラオケ店へ出掛けた。
 海へ行かなかった埋め合わせをするつもりはなかったし、誘った友人たちにも、そんな意図はおそらくない。ただ、《今度は沙波も来られる?》とグループチャットへ届いたメッセージを読んだ時、今度は素直に行きたいと思ったので、《行く》と返した。
 それだけの違いだった。

 以前なら、誘われた時点で参加することを決めていただろう。行きたいかどうかを確かめる前に予定を空け、ほかの人が参加すると分かれば、それで十分な理由になった。
 今回は、自分に一度尋ねてから答えた。
 傍から見れば、何も変わっていない。待ち合わせ場所へ行けばいつもの顔ぶれが揃っており、遅れてきた友人へ手を振り、五人で店へ入った。受付を済ませて部屋へ向かう途中にも、先日の海がどれほど暑かったか、帰りの道路がどれほど混んでいたかという話が途切れなく続いている。

「沙波、ほんと来ればよかったのに。夕方めっちゃ綺麗だったよ」
「写真見た。楽しそうだったね」
「次は来なよ。今度プールも行きたいって話してるから」
「予定合ったらね」

 そう返してから、沙波は自分の言葉に気づいた。
 以前なら「行く」と言ったかもしれない。友人も特に気に留めず、「じゃあ日程決めよ」と別の子へ話を振った。
 沙波はその横顔を見ながら、自分が思っていたほど、人は一つ一つの返事を重く受け取っていないのかもしれないと思った。

 カラオケが始まれば、そんなことを考える暇もなくなった。
 流行している曲を誰かが入れ、サビになると全員で歌う。沙波も知っている曲なら一緒に口ずさみ、友人が高得点を出せば拍手した。途中で注文したフライドポテトを摘まみ、写真を撮ろうと言われれば隣の子へ頬を寄せる。

 楽しかった。少なくとも、楽しくないのに笑っていたわけではない。
 けれど二時間ほど過ぎた頃から、沙波は少し疲れてきた。
 誰かが話せば反応する。曲が終われば感想を言い、知らない歌でも手拍子をする。スマートフォンを見ている時間が長くなれば、機嫌が悪いのかと思われそうで、何となく顔を上げている。
 友人たちが嫌なのではなく、今日は一人になりたいだけだった。

「沙波、次これ一緒に歌お」

 マイクを差し出され、沙波は画面に表示された曲名を見た。知っている曲ではあったが、今は歌いたくない。

「ごめん、ちょっと休む」
「え、どうしたの?」
「何でもないよ。喉渇いただけ」
「そっか。じゃあ私歌うわ」

 友人は気軽にマイクを引き取り、すぐにイントロへ合わせて身体を揺らし始めた。

 疲れた、と言えばよかったのではないか。
 ほんの少し静かにしていたいだけなのに、なぜそれを隠すような返事をしたのだろう。

 沙波はグラスの氷をストローで動かしながら考えてみると、昔から似たようなことは何度もあった。
 元気がないのかと聞かれれば「大丈夫」と答えるし、機嫌が悪いわけではなくても「今日静かじゃない?」と言われれば、その後は意識して話すようにしていた。
 黙っていれば心配され、暗いと思われ、付き合いが悪いと受け取られることもあるから、誰かといる時には自然と明るい方を選んできた。

 そうなるくらいなら、笑っていた方が簡単だった。
 けれど、誰かに「いつも明るくしていなさい」と命じられた記憶はない。

 沙波はふと、自分の周囲にある「普通」のうち、どれほどが実際に誰かから押しつけられたもので、どれほどが自分で勝手に作ったものなのだろうと考えた。

 夕方、カラオケ店を出たところで友人たちとは別れた。
 このあと駅ビルで夕食を食べようという話も出たが、沙波は「今日は帰る」と伝えた。

「珍しいね。門限?」
「ううん。ちょっと疲れたから」

 今度は、きちんと言えた。

「そっか。じゃあまたね」
「うん。また学校始まる前に遊ぼ」

 それ以上、理由を尋ねる者はいなかった。
 友人たちが駅ビルへ入っていくのを見送り、沙波は一人で歩き始める。
 夏の夕方はまだ明るく、道路には昼間の熱が残っていた。人通りの多い駅前を抜け、市立図書館へ続く道へ入る頃には、身体へまとわりついていた疲れも少しずつほどけている。
 図書館へ行くつもりで別れたわけではなかった。
 それでも気づけば図書館の方へ向かっており、閉館まではもう一時間ほどしか残っていなかった。