彼女は、空を見ることを忘れていた。
*
夏休みに入った最初の朝、岸本沙波はカーテンの隙間から差し込む日差しに起こされ、今日は制服へ着替えなくていいのだと思い出してから、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻は七時十二分。平日なら朝食を終え、髪を整えながら家を出る時刻を気にしている頃である。
画面を点けると、眠っているあいだにもクラスのグループチャットは動き続けていたらしく、通知欄には五十を超える未読が並んでいた。開いてみれば、海へ行く日程から駅前の集合時間、誰の母親なら車を出せるかという相談まで、昨夜から途切れることなく話が続いている。
《沙波も来る?》
途中で自分の名前を見つけ、画面を送っていた指が止まった。
海へ行くことに抵抗があるわけではない。去年も似たような顔ぶれで出掛け、砂浜で写真を撮り、かき氷を食べて舌の色を見せ合って笑った。帰宅したあとにはグループチャットへ何十枚もの写真が送られ、その中から写りのいいものを選んでSNSにも載せた。
振り返れば、ちゃんと楽しかったと思う。
今年も参加すれば、たぶん同じように笑うのだろう。それなのに、《行く》と打ち込もうとすると、指が動かなかった。
昨日、進路希望調査の第一志望欄を前にしてから、自分の中に小さな引っ掛かりが残っている。
大学へ行くことも、友達と遊ぶことも嫌ではない。けれど、「嫌ではない」という理由でこれまで選んできたものを一度に並べてみると、そのうちのどれほどを自分から望んだのかが分からなくなった。
沙波は返信をしないまま画面を閉じた。
階下から食器の触れ合う音が届き、間もなく母の声が上がってくる。
「沙波、起きてる? パン焼けてるわよ」
「起きてる。今行く」
返事をしてベッドから降り、髪を適当にまとめて洗面所へ向かう。鏡の中には寝起きの自分がいて、頬に残った枕の跡を指先で押してみると、自分でも少し可笑しかった。
夏休みが始まったからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
朝食を食べ、宿題を進め、必要なら塾へ行く。友達と予定を合わせて遊びに出掛け、八月の終わりには学校へ戻る。そのあいだに進路希望調査を埋めておけば、二学期からは受験について考える時間が、これまでより少し増えるのだろう。
そうやって順番に歩いていけば、困ることなどないように思えた。
「今日は何か予定あるの?」
トーストを食べ終える頃、向かいでマグカップを洗っていた母に尋ねられ、沙波は冷たい麦茶を飲みながら首を横へ振った。
「今日はないよ。海に行こうって誘われてるけど、まだ日も決まってないし」
「それなら午前中に少し宿題を進めたら? 最初のうちにやっておくと、あとが楽でしょう」
「そうするかも」
「それと、昨日もらってきた進路の紙。夏休み明けに出すんでしょう?」
やはりその話になるのかと思ったが、沙波は何も言わずコップを卓上へ戻した。
「まだ一か月以上あるよ」
「一か月なんて、ぼんやりしていたらすぐよ。オープンキャンパスも今のうちに見ておいた方がいいんじゃない? 行きたいところが決まってなくても、実際に見れば興味が出るかもしれないでしょう」
母は責めているのではなく、娘があとで困らないように、今できることを教えているだけなのだろう。
仕事へ持っていく水筒へ麦茶を注ぎながら、「休みが合えば一緒に行くから、気になるところがあったら言ってね」と続ける声にも、苛立ちのようなものはなかった。
「別に今すぐ将来を全部決めろって言ってるわけじゃないんだから。少しずつ考えればいいのよ」
「うん、分かってる」
昨日は「普通でいい」と言われ、今朝は「少しずつ考えればいい」と言われた。
どちらも沙波を安心させるための言葉なのだろう。それでも返事をするたび、まだ誰にも見せていない空欄を、外から指でなぞられているような居心地の悪さがあった。
母が仕事へ出掛けると、居間には冷蔵庫の低い駆動音と、窓の外から絶え間なく届く蝉時雨だけが残った。
二階へ戻れば、夏休みの課題が教科ごとに机の上へまとめてある。昨日のうちに付箋を貼り、おおよその予定も手帳に書いたので、数学から始めればいいことまで決まっていた。
毎年そうしているから、今年も同じように準備した。
階段へ向かいかけた沙波は、途中で足を止めた。
宿題をしたくないわけではない。あとに残せば面倒になることも分かっている。それでも今日くらい、決めておいた通りではないことをしてみたいと思った。
理由らしい理由は浮かばなかったが、そのまま財布とスマートフォンを小さな鞄へ入れ、玄関へ向かう。
母に言われていた帽子を忘れたことには、外へ出てから気づいた。取りに戻ろうか迷った末、今日は木陰を歩けばいいと決め、駅とは反対の方向へ足を向ける。
いつもなら、先に目的地がある。
学校へ行くにも、友達と会うにも、買い物をするにも、辿り着く場所が決まっているから道を選ぶ。ところが今日は行き先そのものがなく、曲がり角へ来るたび、右へ行くか左へ行くかを自分で決めなければならない。
最初の角を右へ曲がり、次は日陰の多い道を選んだ。コンビニの前を通った時には何か冷たいものを買おうかと思ったものの、まだ喉は渇いていなかったので通り過ぎる。
そんなことを繰り返しているうちに、子どもの頃によく家族で訪れた市立公園へ辿り着いた。
池と芝生広場を抱えた大きな公園だったが、中学生になってからはほとんど足を運んでいない。夏休み初日とはいえ、午前のうちから気温は高く、木陰のベンチには年配の夫婦が座り、水飲み場の近くでは幼い子どもが母親と遊んでいる程度だった。
沙波は売店のある方角へ歩きかけ、芝生広場の中央に横たわる人影を見つけて足を止めた。
白い半袖のシャツに、淡い色のパンツを穿いた若い男が、片腕を頭の下へ入れたまま仰向けになっている。傍らには黒いリュックが置かれ、放置されているような様子でもない。
こんな暑いところで何をしているのだろう。熱中症で倒れたのではないかと思い、少し離れたところから様子を窺っていると、その男は片手を持ち上げ、眩しさを遮るでもなく、青空へ翳すように指を広げた。
少なくとも意識はあるらしい。それでも気になり、沙波は芝生へ足を踏み入れた。
「あの……大丈夫ですか?」
男の顔がこちらを向く。
年齢は沙波とそれほど離れていないように見えた。黒に近い髪が額へ掛かり、その隙間から覗いた目には、突然話しかけられたことへの驚きより、なぜ心配されているのか理解できていないような戸惑いがあった。
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夏休みに入った最初の朝、岸本沙波はカーテンの隙間から差し込む日差しに起こされ、今日は制服へ着替えなくていいのだと思い出してから、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻は七時十二分。平日なら朝食を終え、髪を整えながら家を出る時刻を気にしている頃である。
画面を点けると、眠っているあいだにもクラスのグループチャットは動き続けていたらしく、通知欄には五十を超える未読が並んでいた。開いてみれば、海へ行く日程から駅前の集合時間、誰の母親なら車を出せるかという相談まで、昨夜から途切れることなく話が続いている。
《沙波も来る?》
途中で自分の名前を見つけ、画面を送っていた指が止まった。
海へ行くことに抵抗があるわけではない。去年も似たような顔ぶれで出掛け、砂浜で写真を撮り、かき氷を食べて舌の色を見せ合って笑った。帰宅したあとにはグループチャットへ何十枚もの写真が送られ、その中から写りのいいものを選んでSNSにも載せた。
振り返れば、ちゃんと楽しかったと思う。
今年も参加すれば、たぶん同じように笑うのだろう。それなのに、《行く》と打ち込もうとすると、指が動かなかった。
昨日、進路希望調査の第一志望欄を前にしてから、自分の中に小さな引っ掛かりが残っている。
大学へ行くことも、友達と遊ぶことも嫌ではない。けれど、「嫌ではない」という理由でこれまで選んできたものを一度に並べてみると、そのうちのどれほどを自分から望んだのかが分からなくなった。
沙波は返信をしないまま画面を閉じた。
階下から食器の触れ合う音が届き、間もなく母の声が上がってくる。
「沙波、起きてる? パン焼けてるわよ」
「起きてる。今行く」
返事をしてベッドから降り、髪を適当にまとめて洗面所へ向かう。鏡の中には寝起きの自分がいて、頬に残った枕の跡を指先で押してみると、自分でも少し可笑しかった。
夏休みが始まったからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
朝食を食べ、宿題を進め、必要なら塾へ行く。友達と予定を合わせて遊びに出掛け、八月の終わりには学校へ戻る。そのあいだに進路希望調査を埋めておけば、二学期からは受験について考える時間が、これまでより少し増えるのだろう。
そうやって順番に歩いていけば、困ることなどないように思えた。
「今日は何か予定あるの?」
トーストを食べ終える頃、向かいでマグカップを洗っていた母に尋ねられ、沙波は冷たい麦茶を飲みながら首を横へ振った。
「今日はないよ。海に行こうって誘われてるけど、まだ日も決まってないし」
「それなら午前中に少し宿題を進めたら? 最初のうちにやっておくと、あとが楽でしょう」
「そうするかも」
「それと、昨日もらってきた進路の紙。夏休み明けに出すんでしょう?」
やはりその話になるのかと思ったが、沙波は何も言わずコップを卓上へ戻した。
「まだ一か月以上あるよ」
「一か月なんて、ぼんやりしていたらすぐよ。オープンキャンパスも今のうちに見ておいた方がいいんじゃない? 行きたいところが決まってなくても、実際に見れば興味が出るかもしれないでしょう」
母は責めているのではなく、娘があとで困らないように、今できることを教えているだけなのだろう。
仕事へ持っていく水筒へ麦茶を注ぎながら、「休みが合えば一緒に行くから、気になるところがあったら言ってね」と続ける声にも、苛立ちのようなものはなかった。
「別に今すぐ将来を全部決めろって言ってるわけじゃないんだから。少しずつ考えればいいのよ」
「うん、分かってる」
昨日は「普通でいい」と言われ、今朝は「少しずつ考えればいい」と言われた。
どちらも沙波を安心させるための言葉なのだろう。それでも返事をするたび、まだ誰にも見せていない空欄を、外から指でなぞられているような居心地の悪さがあった。
母が仕事へ出掛けると、居間には冷蔵庫の低い駆動音と、窓の外から絶え間なく届く蝉時雨だけが残った。
二階へ戻れば、夏休みの課題が教科ごとに机の上へまとめてある。昨日のうちに付箋を貼り、おおよその予定も手帳に書いたので、数学から始めればいいことまで決まっていた。
毎年そうしているから、今年も同じように準備した。
階段へ向かいかけた沙波は、途中で足を止めた。
宿題をしたくないわけではない。あとに残せば面倒になることも分かっている。それでも今日くらい、決めておいた通りではないことをしてみたいと思った。
理由らしい理由は浮かばなかったが、そのまま財布とスマートフォンを小さな鞄へ入れ、玄関へ向かう。
母に言われていた帽子を忘れたことには、外へ出てから気づいた。取りに戻ろうか迷った末、今日は木陰を歩けばいいと決め、駅とは反対の方向へ足を向ける。
いつもなら、先に目的地がある。
学校へ行くにも、友達と会うにも、買い物をするにも、辿り着く場所が決まっているから道を選ぶ。ところが今日は行き先そのものがなく、曲がり角へ来るたび、右へ行くか左へ行くかを自分で決めなければならない。
最初の角を右へ曲がり、次は日陰の多い道を選んだ。コンビニの前を通った時には何か冷たいものを買おうかと思ったものの、まだ喉は渇いていなかったので通り過ぎる。
そんなことを繰り返しているうちに、子どもの頃によく家族で訪れた市立公園へ辿り着いた。
池と芝生広場を抱えた大きな公園だったが、中学生になってからはほとんど足を運んでいない。夏休み初日とはいえ、午前のうちから気温は高く、木陰のベンチには年配の夫婦が座り、水飲み場の近くでは幼い子どもが母親と遊んでいる程度だった。
沙波は売店のある方角へ歩きかけ、芝生広場の中央に横たわる人影を見つけて足を止めた。
白い半袖のシャツに、淡い色のパンツを穿いた若い男が、片腕を頭の下へ入れたまま仰向けになっている。傍らには黒いリュックが置かれ、放置されているような様子でもない。
こんな暑いところで何をしているのだろう。熱中症で倒れたのではないかと思い、少し離れたところから様子を窺っていると、その男は片手を持ち上げ、眩しさを遮るでもなく、青空へ翳すように指を広げた。
少なくとも意識はあるらしい。それでも気になり、沙波は芝生へ足を踏み入れた。
「あの……大丈夫ですか?」
男の顔がこちらを向く。
年齢は沙波とそれほど離れていないように見えた。黒に近い髪が額へ掛かり、その隙間から覗いた目には、突然話しかけられたことへの驚きより、なぜ心配されているのか理解できていないような戸惑いがあった。


