「私も、何か見つけられるかな」
独り言に近い声だったが、瑠夏は聞き逃さなかった。
「何を?」
「好きなものです。飲み物とか本じゃなくて、もっと……続けたいと思えるもの」
「探してるの?」
「探した方がいいのかなって」
瑠夏は少し考えた。
「探して見つかるものもあると思うけど、気づいたらずっとやってた、みたいなのもあるんじゃないかな」
「瑠夏さんの小説は?」
「僕は後者」
「いつから書いてるんですか」
「小学生の頃から。最初はノートに書いてた」
「そんなに前から?」
「誰にも見せなかったけどね」
「どうして?」
「恥ずかしかったから」
沙波は意外に思った。
「瑠夏さんでも恥ずかしいんですね」
「僕を何だと思ってるの」
「公園の真ん中で空を見るために寝転べる人」
「それとこれは違うよ」
瑠夏が困ったように笑ったので、沙波もつられて笑った。
その時、横を自転車が通り過ぎ、二人は自然に道の端へ寄った。
肩が触れそうになる。
沙波は反射的に半歩離れたものの、それまでとは違う種類の意識が胸の内へ入り込んだことに戸惑った。
瑠夏は気づかなかったのか、何も言わず歩いている。
「その小説」
沙波は少し間を置いてから尋ねた。
「完成したら、読ませてくれるんですよね」
「覚えてたんだ」
「瑠夏さんが言ったんでしょう」
「うん。完成したら」
「新人賞に出す前?」
瑠夏は少し考えた。
「どうしようかな」
「約束したのに」
「完成したら見せるとは言ったけど、いつとは言ってないよ」
「ずるいです」
「じゃあ、ちゃんと完成したら考える」
「絶対ですよ」
「分かった」
瑠夏は笑って頷いた。
誰にも見せていないものを、いつか自分には読ませてくれる。その約束だけで、沙波には十分嬉しかった。
その夜、沙波は友人の一人から個別に届いたメッセージを見つけた。
《今日来なかったけど大丈夫だった?》
心配されているのだと分かる。
《大丈夫だよ! 図書館行ってた》
送ると、すぐに返信が届いた。
《図書館!? 夏休みなのに真面目すぎ笑》
沙波は画面を見つめた。
以前なら《暇だっただけ笑》と返しただろう。けれど今日は、本を読みたかったことも、瑠夏に会えるかもしれないと思ったことも、実際に楽しかったことも、わざわざ隠す理由がないように思えた。
沙波は少し考えてから、
《読みたい本あったから行ってきた。結構よかったよ》
と送った。
《へー! おすすめあったら教えて》
返ってきた《へー! おすすめあったら教えて》を見て、沙波は机の上の本へ手を伸ばした。自分のことを一つ正直に話しても、関係は何も変わらない。その当然さが、少しだけ嬉しかった。
窓を少し開けると、夜の生温かな風がカーテンを揺らした。
机には借りた本と、まだ空欄の進路希望調査が並んでいる。紙へ手を伸ばしかけたものの、今日はやめ、代わりに新しいノートの最初の頁を開いた。
日付の下に、レモンスカッシュ、桃の紅茶、自分で選んだ本、と順に書き、少し迷ってから夏の空も加えた。立派な趣味や将来に役立つものではなくても、自分が好きだと思ったものを忘れないための頁にしてみたかった。
四つの言葉を眺めているうち、図書館でパソコンへ向かっていた瑠夏の横顔が浮かぶ。「好きだから書く」と答えた時の彼には迷いがなく、その姿を思い出すと、何も持っていないと思っていた自分の頁にも、これからまだ増えていく余白があるように感じられた。
*
同じ頃、瑠夏は自室のノートパソコンの前で、少女が友人たちと海へ行く場面を削除していた。どうしても違うと思い、代わりに誰もいない場所で、自分の好きなものを一つ見つける場面を書き直す。
そこで指を止めると、昼間、沙波から「私は、いいと思います」と言われた時の表情が浮かんだ。新人賞のために書き始めた物語には、最初の構想にはいなかった少女が、いつの間にか自分の足で歩き始めている。
窓を開けると、昼間の青さを失った空に夏の星がいくつか見えた。公園で確かめたかった問いの答えは今も一つには決められないが、同じ雲を犬だと言った少女が、自分でもまだ知らない顔を見せるたび、それをもう少し見ていたいと思う気持ちだけは、書き始めた頃よりはっきりしていた。
独り言に近い声だったが、瑠夏は聞き逃さなかった。
「何を?」
「好きなものです。飲み物とか本じゃなくて、もっと……続けたいと思えるもの」
「探してるの?」
「探した方がいいのかなって」
瑠夏は少し考えた。
「探して見つかるものもあると思うけど、気づいたらずっとやってた、みたいなのもあるんじゃないかな」
「瑠夏さんの小説は?」
「僕は後者」
「いつから書いてるんですか」
「小学生の頃から。最初はノートに書いてた」
「そんなに前から?」
「誰にも見せなかったけどね」
「どうして?」
「恥ずかしかったから」
沙波は意外に思った。
「瑠夏さんでも恥ずかしいんですね」
「僕を何だと思ってるの」
「公園の真ん中で空を見るために寝転べる人」
「それとこれは違うよ」
瑠夏が困ったように笑ったので、沙波もつられて笑った。
その時、横を自転車が通り過ぎ、二人は自然に道の端へ寄った。
肩が触れそうになる。
沙波は反射的に半歩離れたものの、それまでとは違う種類の意識が胸の内へ入り込んだことに戸惑った。
瑠夏は気づかなかったのか、何も言わず歩いている。
「その小説」
沙波は少し間を置いてから尋ねた。
「完成したら、読ませてくれるんですよね」
「覚えてたんだ」
「瑠夏さんが言ったんでしょう」
「うん。完成したら」
「新人賞に出す前?」
瑠夏は少し考えた。
「どうしようかな」
「約束したのに」
「完成したら見せるとは言ったけど、いつとは言ってないよ」
「ずるいです」
「じゃあ、ちゃんと完成したら考える」
「絶対ですよ」
「分かった」
瑠夏は笑って頷いた。
誰にも見せていないものを、いつか自分には読ませてくれる。その約束だけで、沙波には十分嬉しかった。
その夜、沙波は友人の一人から個別に届いたメッセージを見つけた。
《今日来なかったけど大丈夫だった?》
心配されているのだと分かる。
《大丈夫だよ! 図書館行ってた》
送ると、すぐに返信が届いた。
《図書館!? 夏休みなのに真面目すぎ笑》
沙波は画面を見つめた。
以前なら《暇だっただけ笑》と返しただろう。けれど今日は、本を読みたかったことも、瑠夏に会えるかもしれないと思ったことも、実際に楽しかったことも、わざわざ隠す理由がないように思えた。
沙波は少し考えてから、
《読みたい本あったから行ってきた。結構よかったよ》
と送った。
《へー! おすすめあったら教えて》
返ってきた《へー! おすすめあったら教えて》を見て、沙波は机の上の本へ手を伸ばした。自分のことを一つ正直に話しても、関係は何も変わらない。その当然さが、少しだけ嬉しかった。
窓を少し開けると、夜の生温かな風がカーテンを揺らした。
机には借りた本と、まだ空欄の進路希望調査が並んでいる。紙へ手を伸ばしかけたものの、今日はやめ、代わりに新しいノートの最初の頁を開いた。
日付の下に、レモンスカッシュ、桃の紅茶、自分で選んだ本、と順に書き、少し迷ってから夏の空も加えた。立派な趣味や将来に役立つものではなくても、自分が好きだと思ったものを忘れないための頁にしてみたかった。
四つの言葉を眺めているうち、図書館でパソコンへ向かっていた瑠夏の横顔が浮かぶ。「好きだから書く」と答えた時の彼には迷いがなく、その姿を思い出すと、何も持っていないと思っていた自分の頁にも、これからまだ増えていく余白があるように感じられた。
*
同じ頃、瑠夏は自室のノートパソコンの前で、少女が友人たちと海へ行く場面を削除していた。どうしても違うと思い、代わりに誰もいない場所で、自分の好きなものを一つ見つける場面を書き直す。
そこで指を止めると、昼間、沙波から「私は、いいと思います」と言われた時の表情が浮かんだ。新人賞のために書き始めた物語には、最初の構想にはいなかった少女が、いつの間にか自分の足で歩き始めている。
窓を開けると、昼間の青さを失った空に夏の星がいくつか見えた。公園で確かめたかった問いの答えは今も一つには決められないが、同じ雲を犬だと言った少女が、自分でもまだ知らない顔を見せるたび、それをもう少し見ていたいと思う気持ちだけは、書き始めた頃よりはっきりしていた。


