夕方、図書館を出る頃には、昼の強い日差しもいくらか和らいでいた。
沙波の鞄には自分で選んだ本が一冊入り、手には半分ほど残ったレモンスカッシュがある。
「結構飲んだね」
瑠夏がボトルへ目を向けた。
「気に入りました」
「じゃあ今日は当たりだった?」
「たぶん当たりです」
答えてから、沙波は少し考えた。
「でも、次は違うものにしてみます」
「どうして?」
「ほかにも好きなものがあるかもしれないから」
瑠夏はこちらを見て、少し意外そうに笑った。
「いいね、そういうの」
「そんなに褒めることですか?」
「褒めたというより、僕が好きだっただけ」
「何がですか」
「まだ知らないなら、ほかも試してみようって考え方」
沙波自身を好きだと言われたわけではないと分かっている。それでも「好き」という二文字だけが、ほかの言葉より少し長く耳の奥へ残った。
沙波は返事をせず、レモンスカッシュへ口をつけた。
炭酸が喉を通り抜ける。隣を歩いている瑠夏は何も気にしていないらしく、少し先の空を見ていた。
「瑠夏さん」
「うん?」
「小説、進みました?」
「今日は少しだけ」
「空は出てきました?」
「出なかった」
「じゃあ、やっぱり公園で二十分寝転んだの、無駄だったんじゃないですか」
「まだ分からないよ。来週使うかもしれないし、一年後に別の話を書く時に思い出すかもしれない」
「そんな先まで覚えてます?」
「忘れてるかも」
「じゃあ、本当に無駄になるかもしれないじゃないですか」
沙波が笑うと、瑠夏も笑った。
「それでも、沙波が犬って言ったことは覚えてると思う」
不意に自分の名前が出てきて、沙波は横を見る。
瑠夏は特別な意味を込めた様子もなく、夕方の空を見上げていた。
「どうしてですか?」
「僕にはワニだったから。同じもの見て、全然違うもの言ったのが面白かった」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない?」
「……別に、足りないわけじゃないです」
自分でも何を期待して尋ねたのか分からず、沙波も空へ視線を逃がした。
今日は犬にもワニにも見える雲はない。
「瑠夏さんって、分からないこと多いですよね」
「沙波に言われるとは思わなかったな」
「私は最近、少しずつ増えてますから」
「分からないことが?」
「分かることが、です」
「例えば?」
沙波は手の中のレモンスカッシュを軽く持ち上げた。
「これ、好きです」
それから肩に掛けた鞄へ手を添える。
「今日選んだ本も、今のところ好き」
「二つ増えたね」
「まだ二つですけど」
「三日前は?」
沙波はすぐには答えなかった。
三日前なら、好きなものを尋ねられても、何か一つだけを選ぶことさえ難しかった気がする。
そう考えながら隣を見ると、瑠夏がまた空を眺めていた。黒に近い髪が夕方の光を受け、その向こうに淡い青が広がっている。
夏の空も好きになった、と言いかけたものの、沙波は口には出さなかった。誰かへ伝えなくても、自分の中に置いておける好意があっていいと思えたからだった。
駅へ向かう道の途中で瑠夏と別れ、一人になってからも、沙波は時折レモンスカッシュを飲んだ。甘く、少し酸っぱく、口の中で細かな炭酸が弾ける。母に薦められたものでも、友達が飲んでいたから選んだものでもなく、今日の自分が飲んでみたいと思って手に取った味だ。
進路希望調査の空欄は相変わらず残っており、大学へ行きたいのかも、将来どんな仕事をしたいのかも分からない。それでも帰宅後に紙を目にすることを思っても、三日前ほど気は重くなかった。
飲み物なら違ったと思えば次を選べるし、本なら面白くなければ途中で閉じられる。進路まで同じように扱えるとは思わないが、自分が何を望んでいるのかさえ曖昧なら、まずは失敗しても困らないところから確かめていけばよいのかもしれなかった。
信号の前で透明なボトルを西日へ透かすと、淡い黄色の中を残った炭酸の泡が細く昇っていく。明日は何を飲もうかと考えながら信号が変わるのを待つ時間を、沙波は少し楽しいと思った。
沙波の鞄には自分で選んだ本が一冊入り、手には半分ほど残ったレモンスカッシュがある。
「結構飲んだね」
瑠夏がボトルへ目を向けた。
「気に入りました」
「じゃあ今日は当たりだった?」
「たぶん当たりです」
答えてから、沙波は少し考えた。
「でも、次は違うものにしてみます」
「どうして?」
「ほかにも好きなものがあるかもしれないから」
瑠夏はこちらを見て、少し意外そうに笑った。
「いいね、そういうの」
「そんなに褒めることですか?」
「褒めたというより、僕が好きだっただけ」
「何がですか」
「まだ知らないなら、ほかも試してみようって考え方」
沙波自身を好きだと言われたわけではないと分かっている。それでも「好き」という二文字だけが、ほかの言葉より少し長く耳の奥へ残った。
沙波は返事をせず、レモンスカッシュへ口をつけた。
炭酸が喉を通り抜ける。隣を歩いている瑠夏は何も気にしていないらしく、少し先の空を見ていた。
「瑠夏さん」
「うん?」
「小説、進みました?」
「今日は少しだけ」
「空は出てきました?」
「出なかった」
「じゃあ、やっぱり公園で二十分寝転んだの、無駄だったんじゃないですか」
「まだ分からないよ。来週使うかもしれないし、一年後に別の話を書く時に思い出すかもしれない」
「そんな先まで覚えてます?」
「忘れてるかも」
「じゃあ、本当に無駄になるかもしれないじゃないですか」
沙波が笑うと、瑠夏も笑った。
「それでも、沙波が犬って言ったことは覚えてると思う」
不意に自分の名前が出てきて、沙波は横を見る。
瑠夏は特別な意味を込めた様子もなく、夕方の空を見上げていた。
「どうしてですか?」
「僕にはワニだったから。同じもの見て、全然違うもの言ったのが面白かった」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない?」
「……別に、足りないわけじゃないです」
自分でも何を期待して尋ねたのか分からず、沙波も空へ視線を逃がした。
今日は犬にもワニにも見える雲はない。
「瑠夏さんって、分からないこと多いですよね」
「沙波に言われるとは思わなかったな」
「私は最近、少しずつ増えてますから」
「分からないことが?」
「分かることが、です」
「例えば?」
沙波は手の中のレモンスカッシュを軽く持ち上げた。
「これ、好きです」
それから肩に掛けた鞄へ手を添える。
「今日選んだ本も、今のところ好き」
「二つ増えたね」
「まだ二つですけど」
「三日前は?」
沙波はすぐには答えなかった。
三日前なら、好きなものを尋ねられても、何か一つだけを選ぶことさえ難しかった気がする。
そう考えながら隣を見ると、瑠夏がまた空を眺めていた。黒に近い髪が夕方の光を受け、その向こうに淡い青が広がっている。
夏の空も好きになった、と言いかけたものの、沙波は口には出さなかった。誰かへ伝えなくても、自分の中に置いておける好意があっていいと思えたからだった。
駅へ向かう道の途中で瑠夏と別れ、一人になってからも、沙波は時折レモンスカッシュを飲んだ。甘く、少し酸っぱく、口の中で細かな炭酸が弾ける。母に薦められたものでも、友達が飲んでいたから選んだものでもなく、今日の自分が飲んでみたいと思って手に取った味だ。
進路希望調査の空欄は相変わらず残っており、大学へ行きたいのかも、将来どんな仕事をしたいのかも分からない。それでも帰宅後に紙を目にすることを思っても、三日前ほど気は重くなかった。
飲み物なら違ったと思えば次を選べるし、本なら面白くなければ途中で閉じられる。進路まで同じように扱えるとは思わないが、自分が何を望んでいるのかさえ曖昧なら、まずは失敗しても困らないところから確かめていけばよいのかもしれなかった。
信号の前で透明なボトルを西日へ透かすと、淡い黄色の中を残った炭酸の泡が細く昇っていく。明日は何を飲もうかと考えながら信号が変わるのを待つ時間を、沙波は少し楽しいと思った。


