夏にほどける

 二階の閲覧席で、瑠夏は窓際の机を選んだ。

 リュックから薄いノートパソコンを取り出し、電源へ繋いでから画面を開く。沙波は少し離れた席へ座り、自分で選んだ本を読み始めた。

 数頁ほど進んだところで、静かな館内にキーボードの音が聞こえてくる。
 気にしないように本へ目を戻したものの、しばらくすると音が止まった。

 沙波は反射的に顔を上げる。
 瑠夏は画面を見たまま、片手を口元へ当てて考え込んでいた。
 公園で話していた時よりも少し大人びて見える横顔に、窓から入る午後の光が淡く触れている。

 キーボードの上へ置かれた指が、またゆっくり動き始めた。
 長く、細い指だった。さっき炭酸水を持っていた時にも、同じことを思った気がする。
 あの指で、自分の知らない人間の言葉や、まだこの世のどこにもない場面を書いている。

 何を書いているのだろう。覗きたいわけではないのに、知りたいとは思った。
 見ていたことに気づいたのか、瑠夏が顔を上げたので再び目が合う。

「気になる?」

 声は図書館の静けさを壊さない程度に抑えられている。

「少しだけ」
「見せないよ」
「覗こうとしてません」
「完成したらね」

 沙波は少し驚いて顔を上げた。

「見せてくれるんですか?」
「ちゃんと最後まで書けたら」
「新人賞に出す前?」
「そこまでは、まだ決めてない」
「約束してくれないんですね」
「完成するかも分からないのに約束したら、書けなかった時困るでしょう」

 思っていたより弱気な言葉だった。

「完成しないこともあるんですか?」
「いっぱいあるよ。途中まで書いて、これは違うなと思ってやめた話もあるし」
「それでも、また書くんですね」
「書きたくなるから」

 その答えだけは、迷いなく返ってきた。

 沙波は少しのあいだ瑠夏を見てから、自分の本へ視線を戻した。
 先ほど選んだ一冊は、十頁を越える頃には思っていた以上に面白くなっていた。

 もう少し先を読みたい。そう思った時、誰かのレビューを調べようとはしなかった。
 誰かの評判ではなく、自分が続きを読みたいと思っている。その感覚だけで、今は十分だった。

 ページをめくる音と、瑠夏がキーボードを叩く音が、同じ空間で静かに重なっていく。
 話をしなくても、不思議と気まずくはなかった。