夏にほどける

 会計を済ませて店を出ると、忘れていた暑さが一度に戻ってきた。
 二人は店先の日除けの下へ入り、沙波はレモンスカッシュの蓋を捻る。小さく炭酸の弾ける音がして、ほのかなレモンの香りが立った。
 一口飲んでみると、思っていたより酸味が強く、そのあとから甘さが追いかけてくる。

「どう?」

 瑠夏に訊かれ、沙波は味を確かめるようにもう一口飲んだ。

「……好きかもしれません」
「まだ決めないんだ」
「一口で好きって決めるのも早くないですか?」
「それもそうだね」

 瑠夏は笑って炭酸水の蓋を開け、そのまま透明なボトルを口元へ運んだ。
 何気ない仕草だったはずなのに、沙波の視線は瑠夏の喉元からすぐには離れなかった。

 顎が少し上がり、白い喉元が伸びる。水を飲み込むたびに、喉仏が静かに上下した。
 同級生の男子にも喉仏くらいあると知っているし、これまで特別に意識したこともない。それなのに、飲み込むたび静かに上下する動きから目を離すきっかけを失い、見ている自分を意識した途端、今度はどこへ視線を置けば自然なのか分からなくなった。
 瑠夏がボトルを下ろしたので、沙波は慌てて手元のレモンスカッシュへ目を落とした。

「どうしたの?」
「何でもないです」
「炭酸、思ったよりきつかった?」
「そうじゃないです」

 反射的に否定すると、少し強い声になった。
 不思議そうにこちらを見た瑠夏と、今度は真正面から目が合う。
 公園で会った時には黒に近い髪の方が印象に残っていたが、こうして近くで見ると、瞳は思っていたほど暗くなかった。日の光を受けたところだけ、黒の底に柔らかな茶色が透けている。

 綺麗な目をしている。頭に浮かんだことに自分で驚き、沙波は誤魔化すようにボトルへ口をつけた。
 炭酸が舌の上で弾ける。

「やっぱりおいしくなかった?」
「だから、おいしいですって」
「ならよかった」
「何がですか?」

 瑠夏は炭酸水の蓋を閉めながら、ごく自然に答えた。

「沙波が飲みたいと思ったものが、おいしかったから」
「もし、おいしくなかったら?」
「それはそれで、一個分かるでしょう。レモンスカッシュは思ってたほど好きじゃなかったって」

 沙波は手元のボトルを見る。

「失敗してもいいってことですか」
「飲み物一本くらいなら、いくらでも」
「本当に小さい話ですね」
「最初から取り返しのつかないことで練習する必要もないでしょう」

 瑠夏が歩き始めると、沙波もレモンスカッシュを手にその隣へ並んだ。
 百数十円の飲み物を一本買っただけなのに、自分で選んだというだけで、手の中にあるものがいつもより少しだけ自分に近く感じられた。


 市立図書館は、夏休みに入った学生たちで普段より混み合っていた。
 冷房の効いた館内へ入ると、古い紙と本棚の匂いがする。
 沙波は小学生の頃、母に連れられてよくここへ来ていた。中学生になってからは学校の図書室で済ませることが増え、高校へ入ってからは必要な本を買うことの方が多くなったため、久しぶりに入った館内は、記憶に残っているより少し小さく見えた。

「瑠夏さん、いつもどこで書いてるんですか」
「二階の閲覧席。電源を使えるところがあるから」
「パソコンで書くんですよね」
「うん。今日もそのつもり」

 瑠夏は肩に掛けていたリュックを持ち直した。中にはノートパソコンが入っているらしい。

「新人賞に出すって言ってましたよね」
「覚えてたんだ」
「珍しかったので」

 口にしてから、沙波は少し気になった。

「……ごめんなさい。悪い意味で言ったわけじゃなくて」
「分かってるよ」

 瑠夏は笑った。けれど返事までの間が、ほんの一瞬だけ長かった。
 沙波はその横顔を見る。

「小説を書くって言うと、よく言われるんですか」
「何を?」
「変わってるとか、珍しいとか」

 瑠夏はすぐに答えず、書架の向こうへ視線を向けた。

「たまに。別に、ものすごく嫌ってわけじゃないんだけど」
「でも、ちょっと困った顔しました」
「そんな顔してた?」
「少しだけ」
「よく見てるね」

 そう言われると、今度は沙波の方が言葉に詰まった。

「目の前にいるので」

 何とかそれだけ返すと、瑠夏は追及せず、小さく笑って話を続けた。