夏にほどける

 進路希望調査の紙は、他のプリントより少しだけ白く見えた。
 もちろん、実際には同じコピー用紙なのだろう。けれど、机の上に置かれた一枚ばかりが目につき、岸本沙波はシャープペンシルを持ったまま、第一志望の欄を埋められずにいた。
 教室のあちらこちらでは、すでに進路の話が始まっている。

「私、教育学部かなあ。子ども好きだし」
「え、もう決めてんの? 早くない?」
「でもオーキャン行くなら、今から見といた方がよくない?」
「私はとりあえず大学。学部はまだ分かんないけど」

 机を寄せ合った友人たちの声に、ときおり笑いが混じる。沙波も顔を上げれば、その輪に加わることはできたし、何か話を振られれば、いつものように笑って答えられただろう。

 けれど今は、紙の上に並んだ文字から目を離せなかった。
 大学という二文字を書いておけば、おそらく誰にも不思議がられない。担任も頷くだろうし、両親も安心するはずだった。成績は飛び抜けてよくもなければ、進学を諦めなければならないほど悪くもない。高校を卒業したあと、とりあえず大学へ進むという選択は、沙波にとって最も無理のないものに思える。

 ところが、どこの大学へ行きたいのかと問われれば、途端に答えられなくなる。学びたいことも、その先で就きたい職業も、これまで真剣に考えたことがなかった。

「沙波は大学でしょ?」

 隣の席から声を掛けられ、沙波はようやく顔を上げた。

「うん。たぶん」
「だよね。なんか沙波って、ちゃんと大学行きそう」

 友人の言った「ちゃんと」は、たぶん褒め言葉だった。悪い意味などないと分かっているのに、その二文字だけが心のどこかへ引っかかり、沙波は曖昧に笑って手元へ目を戻した。
 第一志望の四文字の横には、細長い空欄が残っていた。

 放課後になると、クラスのグループチャットには夏休みの予定が次々と流れ始めた。

《花火大会みんなで行かない?》
《行く!》
《浴衣着たい》
《沙波も来るよね?》

 駅へ向かう電車の中で画面を眺めながら、沙波は親指を止めた。
 花火大会が嫌いなわけではない。去年も同じような顔ぶれで出掛け、屋台の焼きそばを食べたあと、誰かが持ってきた自撮り棒で何枚も写真を撮った。帰りの電車はひどく混んでいて、浴衣の帯が苦しいと皆で文句を言いながら、それさえ翌日には笑い話になった。

 今年も行けば、きっと楽しい。
 そう思って、《行けたら行く!》と打ち込み、送信する。
 間を置かず、いくつものスタンプが返ってきた。花火やハートの小さな絵が画面を流れていくのを眺めたあと、沙波はスマートフォンを膝の上へ伏せる。

 行きたいのか、と改めて考えてみても、よく分からなかった。
 だからといって、行きたくないわけでもない。
 自分の予定なのだから、自分に訊けば分かりそうなものなのに、沙波にはこういうことが時々あった。

 何が食べたいと聞かれて、何でもいいと答える。休日にどこへ行きたいと聞かれれば、皆に合わせると言う。映画を選ぶ時にも、見たいものより先に、一緒にいる相手が何を見たがっているのかを考える。
 それで困ったことは、これまで一度もなかった。

 電車が大きく揺れ、伏せていたスマートフォンが膝の上で少し滑った。沙波はそれを押さえ、窓へ目を向ける。夕方の街並みが、車窓の向こうを後ろへ流れていった。

 家へ帰ると、母が夕食の支度をしていた。

「おかえり。今日、進路希望の紙もらったでしょう?」
「うん」
「やっぱり大学で出すの?」

 冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、沙波は曖昧に頷いた。

「たぶん」
「たぶんって。もう高校二年生なんだから、少しずつ考えないと」

 責める調子ではなかった。母は味噌汁の鍋をかき混ぜ、味見をすると、少し考えてから醤油を足した。

「別に、ものすごくいい大学へ行きなさいって言ってるわけじゃないのよ。大学くらいは出ておいた方がいいってこと。就職する時だって、その方が選べるでしょう?」
「うん」
「普通でいいのよ、普通で」

 麦茶がコップの半分ほどまで入ったところで、沙波の手が止まった。
 母は気づかず、鍋へ向かったまま話を続けている。

「ちゃんと大学へ行って、就職して、そのうちいい人がいたら結婚して。ママだって二十三で結婚して、次の年にはあなたを産んだんだから。人生なんて、そんなに難しく考えなくてもいいのよ」

 言い終えた母は、何でもないことのように笑った。沙波もつられて口元を緩める。

「そうだね」

 その返事を聞くと、母は安心したように頷き、今度は冷蔵庫から豆腐を取り出した。
 夕食の席では、父も似たようなことを言った。

「大学へ行けば将来の選択肢は増えるんだから、行っておいて損はないだろう」

 箸で焼き魚の骨を除きながら、ごく穏やかな声で言う。母も父も、沙波の人生を勝手に決めようとしているわけではないのだろう。二人がこれまで生きてきた中で、娘がなるべく困らずに済む道を示してくれている。
 だからこそ、何と返せばいいのか分からなかった。

「うん」

 結局、昼間から何度目になるのか分からない返事をして味噌汁の椀へ口をつけると、いつもと同じ味がした。

 食事を終えて自室へ戻ると、沙波は鞄から進路希望調査を取り出し、机の上へ広げた。
 学校から渡された一枚の紙には、第一志望、第二志望、興味のある学部、将来希望する職業と、十七歳の自分がこれからどこへ向かうのかを書き込むための欄が整然と用意されていたが、そのどこにもまだ文字はなかった。

 机の端に置いたスマートフォンが震え、グループチャットの通知が増える。

《花火楽しみー》
《写真いっぱい撮ろ》
《今年こそ全員集合ね》

 沙波は画面を眺めたあと、返信せずに通知を閉じた。

 窓の外には、梅雨の湿り気をまだどこかに残した夕空が広がっている。西へ傾いた光に雲の輪郭が淡く染まり、その上には、昼と夜のどちらにもなりきれない青が残っていた。

 そういえば、こんなふうに空を眺めたのはいつ以来だろうと記憶を探ってみても、思い当たる日は出てこなかった。
 大学へ行くことも、友達と花火を見ることも、皆と同じところで笑うことも、別に嫌ではない。
 学校だってそれなりに楽しい。友達のことも好きだし、家に帰れば夕食があって、両親との仲が悪いわけでもなかった。
 それなのに、進路希望調査の紙を前にすると、自分の人生について尋ねられているはずなのに、誰かから教わった答えを思い出そうとしているような心許なさが残る。

 沙波はシャープペンシルを持ち直し、「大学」と書くつもりで第一志望の欄へ芯を近づけた。少なくとも今のところ、ほかに行きたい場所があるわけではない。それでも紙へ触れる寸前で、手は止まった。

 昼間、友人から言われた「ちゃんと」という言葉と、夕方、母が口にした「普通」という言葉が、ふいに重なった。
 ちゃんと大学へ行き、普通に就職して、いつかいい人と出会って結婚する。そんな人生は決して悪くないし、自分がそうなれたなら幸せなのだろうと思うのに、その道を本当に歩きたいのかと問われると、沙波の中からは何も返ってこなかった。

 窓から入った風が、机の上の紙をかすかに揺らす。
 空欄を左手で押さえながら、沙波は母の「普通でいいのよ、普通で」という声を思い返した。見慣れているはずの二文字なのに、母にとっての普通、父にとっての普通、教室で「とりあえず大学」と話していた友人たちの普通を順に考えているうち、自分にとってそれが何なのかだけが分からなくなった。

 沙波はシャープペンシルを机へ置いた。第一志望の欄は白いままだったが、紙を渡された昼間とは少し違って見える。書けないのではなく、今はまだ書きたくないのだと、その違いだけを胸の内に残して、今夜は空欄のままにしておくことにした。