輝けなかった星に捧ぐ

 ハルと親交を深めるうちに、いろんな話をするようになった。ハルは明るく活発な性格だったが、俺以外にピアノを聞かせようとしなかった。だから、ハルがピアノを弾けることを知る人すら、俺しかいなかった。
 美しいピアノの旋律の中にいる彼は、今この一瞬を凍らせて人を黙らせるほどの存在感を放つ。
 滑らかに動く細い指を目で追う。そうしているうちに、ハルに俺は飲まれていたのだ。ピアニストがどういうものかわからなかった。けれど、自分だけが、ハルのピアノを聞くのは、もったいなく感じる。
 才能をひけらかせと言っているわけではない。ただ知ってもらうことで、彼の人生が花開く気がしたのだ。
 音楽室で、息をひそめるようにピアノを弾く。それがただ、嫌だったのだ。
「なぁ、ハルの家って星良さんしかいないの?」
 なんとなく聞いた疑問だった。
「なんで、そう思うの?」
「星良さんしかみたことないから」
 ハルは少し卑屈な笑みを浮かべる。
「死にかけのじいさんが一人、自室から動けないで介護されてるよ」
 その口ぶりで察する。ああ、そのじいさんが星良さんの言っていたろくでもない親だったのかもしれない。
「ハルはそいつが嫌いなんだ」
「ああ」
 ハルは笑わずに言う。それが言葉よりも、強い肯定になってずしりと訴えてくる。これ以上、踏み込まれたくはないのだと。
「言わないと、フェアじゃないよな。お前の家庭のこと俺も首突っ込んでいるわけだし。俺は父さんと母さんの子じゃない。父さんとは腹違いの兄弟だし、星良ともそう……」
「なぁ。言いたくないことなら音で教えてよ。それで察するから」
 なんでそんな言葉が出てきたのかわからない。ただ、俺もハルも言葉が苦手なんだと思う。言い切ることで、固定され、自覚し、そこから逃げられない気がするから。
「わかった」
 ハルの荒ぶる心の音に耳を立てて、ああ、そうかなんてわかったふりをした。でも何よりもその音が、彼の心を知るきっかけになる気がしていたんだ。
「ハルはいいよな。何かに秀でていて。自分のアイデンティティを持ってて」
 ぼやいた声は、ハルには届かなかった。

 ハルと別れて自宅に帰った後、俺は自室のベッドに横たわった。家には誰もいない。母と父はいつも出掛けていて、俺が寝静まった後にこっそりと帰宅する。
 おそらく子供が嫌いなんだと思う。子供の扱いがわかっていないだけかもしれないが、時折交わされる言葉の端々から、感じ取れることもあった。
「自分たちより幸せな子供時代を送るなんて許さない」
 両親は共依存で、互いに依存して肯定しあう、気味の悪い関係を築いている。おそらく似た境遇、似た家庭環境にいたのだろう。
 そしてお互い僻みっぽい性格をしている。誰かのせいにしないと保てないほど、精神が未熟。そんな親に育てられた自分は、さっさと悟っているんだ。
 何かを求めたところでほしいものは、彼らからは得られないと。
 そんな自分でも、今はハルもいるし。星良さんも気にかけてくれる。たった二人が自分を心配してくれるだけで、世界は劇的に変わった。
 芽生えなかった感情が少しだけ、動くようになった。笑っても嘘くさかった笑顔が、真実味を帯びてきた。
 俺はよく笑うようになった。けれど、同時に苦しめられる。両親の侮蔑の表情に妬ましさが映ったその瞬間、ごめんなさいと口にしてしまうのだ。
 両親は愉悦の表情をし、それでいいと納得するのを見て、ああ。結局、俺はこいつらの操り人形でしかない。
 不気味で気色の悪い、腹話術人形の両親から、どうやって逃げられるのか。わからなくて、頭が痛くなった。ハルはいい。星良さんもいるし、才能もある。自分を導いてくれるものがたくさんある。
 俺にはない。自分を救ってくれた寄る辺に対して、こんなことを思う方がどうかしているのだ。羨ましいなんて。妬ましいなんて。
 そうやって今日も自己嫌悪に落ちていくのだ。愛してくれる人もいない人生を、干からびて死ぬ時を待っている。孤独なのかもしれないと、寒さに耐えるように自分を抱きしめた。
 孤独から自分を救うすべを知らず、延々と地獄を見ている。

 そんな初夏のある日のこと。
 ぼんやりとハルに向けていた妬みを口にしてしまった。
「お前はいいよ。才能があって。親に期待されなくても、ほかの誰かに将来に期待されてて。俺はやりたいことまだわからない」
 きっとハルは、あやふやに微笑んで流すと思っていた。
「どうせ、死んでしまうのに」
 そんなことを言われると思っていなかった。静まりかえる音楽室の秒針だけが大きく聞こえた。静かにゆっくりと、息を吸った。
「死ぬって何?」
 沈黙がより、自分の鼓動の大きさを否定してくれなかった。
「さぁ、なんだろうね」
「今更、ごまかしたって遅いよ」
 言葉が上手く口から出てこない。音楽室に入る西日の眩しさに目を細める。息がどんどん浅くなり、俺は膝をついた。
「死ぬってなんだよ」
 絞りだした声が、震えていた。ハルはそれでも俺に近づかなかった。どんな顔をしているかすら、よく見えなかった。
「明菫って、俺のこと好きじゃん。俺が死んだら、悲しい?」
 ハルは屈託もなく笑う。でもそれは笑顔ではないんだ。口の端がわずかに震え、息遣いにわずかな乱れがあった。
「……悲しいよ」
 そういった瞬間、ハルも同じように膝をついて、深く息を吐いた。
「よかった」
 うつむいた顔は見れない。けれど、鼻をすする音が聞こえる。
「ああ、俺。死にたくないな」
 雫が、ハルの座った床に落ちる。
「死にたく……ないなぁ」
 秒針が音を立てて、時間を進めるのに。止まった時間の中で、俺とハルは見つめあっていた。互いの言葉にしなかった気持ちを探るように。目を見て、口の動きを見て、そして悲しい表情を見て、探るしかなかった。
「死ななきゃいい。手術すればいい」
 つぶやいた声に反応して、ハルが顔を上げる。
 涙で濡れた頬、赤く腫れた目には、彼のすべてが詰まっていた。笑っている。ボロボロに泣いてるのに、彼は嬉しそうだった。
「無理だよ。俺、手術したらまひが残るって言われるんだ。ピアノ、弾けなくなるんだ。ピアノは俺の価値だよ。俺のすべてだよ。だから、生きながら死ぬか、死んで何もなくなるか、どっちかしか、選べないんだよ。助けてよ……、明菫。なぁ、助けて……」
 突然肩をつかまれて、泣き縋られた。
 ああ、こういう時、俺はどうやって人を救えばいいかわからない。家族に教えられなかった。自分で学ぶことができなかった。
 いつだってそうだ。こうやって、心の内に入り、自問自答を繰り返すだけで何もできちゃいない。
 俺はそっと立ち上がって、一言だけ。
「じゃんけんしよう」
 ハルは呆気にとられ、口を開く。
「は?」
「前か後ろ、選ばせてやるよ」
「なんの?」
「自転車の」
 そういうと、最初はグーと口にした。慌ててハルもグーを出す。そしてハルはチョキを出し、俺はグーを出した。
「じゃ、俺が決める。俺が漕ぐから、お前は後ろに乗れ」
「はぁ? 俺に漕がせるんじゃないのかよ」
 ハルは焦ったように立ち上がると、俺も構わず歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「ピアノから遠いところ」
 そういった瞬間、ハルは足を止めた。何かを考えるようにして、地面を見つめたあと「いかない」と一言だけつぶやく。
「……いかないのか?」
「い、かない。ピアノから離れたくない」
 ハルは考え込むように黙った。
「明菫、お前は何考えてる?」
「何も」
 本心だった。もう、考えることに飽きた。だから、考えることを放棄した。
「遊ぼう。もう、気が済むまで」
「……わかんないよ。お前が何を考えているか、わかんないよ」
「俺もわかんない。でも、お前ってピアノを弾くだけの機械なの?」
「……」
 ハルは何も言わなくなった。
 俺は無理やり手を引いた。嫌がっているはずのハルは大人しく手を引かれた。
「明菫、俺、どうしたらいいかわからない」
 珍しく素直に言葉を吐くハルに俺は言う。
「俺ずっと、ハルが羨ましかった。俺は本当は感情が薄いし、喜びも上手く感じ取ることができない。秀でているところも何もない。何しても楽しくない」
「嘘つけ。お前よく笑うじゃん」
「だから、お前と出会ってからなんだよ。楽しいがわかるようになったのは。もしかしたら、お前があの時俺を助けなければ、歪んで後戻りできなくなってたかもしれない」
 そういうと、ハルは黙り込んだ。
「なぁ。俺はハルのすべてがピアノだなんて思わないよ。ハルはハルじゃないか。仮に何もかもなくしたとしても、お前が俺を助けた親友だってこと、何か変わるのか? お前がピアノを弾けなくなったら、俺とお前は親友じゃなくなるのか? 教えてくれよ」
 俺は頑なに、振り向かなかった。ハルのすすり泣く声が聞こえていたから。振り向いちゃダメだって思った。
「友達だろ。何があっても。お願いだから、そういってくれ」
 ハルは消え入りそうな声で、うんとだけつぶやいた。手のひらが強く握られる。
「なぁ、一緒に逃げてくれないか」
「いいよ」
 何からとか、何処までとか、野暮なことは聞かなかった。ただハルを乗せて、俺は自転車をこぐと宛てもなく、ただ黙って自転車をこぎ続ける。
 地平線が見える。海の波の音を聞きながら、俺はハルの心が穏やかであればいいと願う。幸福をこいつに与えてやってくれ、神様と。信じてない神様に祈る。
 呆然と、神様が本当にいる気がした。何でも願いを叶えてくれる存在ではなく、人の誰かの幸せを祈る感情の向かう先に神様がいる。そんな気がしたのだ。
 ハルの心が病気と向き合えるまで、俺は自転車を黙って漕ぎ続ける。二人の間には沈黙より重い空気が立ち込めている。お互い言葉を交わさない。ただ、覚悟を決めるその時を黙ったまま待っているのだ。
 国道906号線を荒い息を整えることもしないで、漕ぎ続ける。
「あ、」
 薄紫の雲がたなびく空に、血のような赤が滲んで夕闇が迫る。いろんな色のせめぎ合いを眺めて、日が落ちそうになる空を睨んだ。
 俺はペダルを漕ぐ足を止める。
「海だ」
 ハルがそう、つぶやいたから。
「ハル、休憩。もうだめだ」
 息も絶え絶えな俺を見て、ハルは自転車から降りた。
「ポカリ買ってくる。今日のお礼」
「はぁ? こんなに自転車漕がせて、ポカリで足りると思ってんの?」
 俺はふざけてハルを小突いた。
「ははっ。じゃ、ファミチキもつける」
「おにぎりもつけろ。ツナマヨな!」
 そう言って、ハルはコンビニに出かけた。ハルが戻ってくるまでの時間、俺は星良さんに電話をかける。
「どったの。珍しいね、あきから電話なんて。てか、ハル帰ってこないんだけど」
「……星良さん、ハルから聞いた。病気のこと」
「あ、なるほど。それで青春の逃避行ってわけか」
「からかわわないでよ」
「からかってないよ。逃げたかったんでしょ。逃げればいいじゃん。気が済むまで、わかってて逃げてんでしょ?」
「……うん」
 俺は苦し紛れに声を濁した。星良さんは悟ったように豪快に笑った。
「いいじゃないの。そういうの、青春っぽくて好きだよ。それにあの子の自由にさせたいのも嘘じゃないけど、……私だってハルに生きててほしい。死んでほしいなんて思うわけないでしょ。仮にも、あの子の親なの」
「うん。ねぇ、星良さん。俺、死なないでほしいって言えないよ。ハルに生きててほしいのに」
「うん」
「死にたくないって言ったんだ。ハル。それなら生きればいいのに、なんでそんな簡単なことなのに、こんなに難しいんだろ」
 星良さんは黙っていた。黙って何も言わないで。少しかすれた声で泣いていた。
「なぁ、なに泣いてんの?」
 そうハルの声が聞こえた瞬間、思わず電話を切った。
「ツナマヨのおにぎりは?」
 ぶっきらぼうに俺はハルに手を差し出す。わずかに震える指先に力を入れて、必死にごまかしていた。
「ポカリもファミチキも。ツナマヨも買ってきたよ」
「ハルは食べないの?」
 ハルは少し考え込んで、ファミチキはもらうよとコンビニの袋からファミチキも奪った。
「なぁ」
 喉の奥が震えて上手く声が出せないのが、もどかしい。
「何?」
 ハルはいつもの調子に戻って話しかけてくる。こういうことを言うと、俺はきっと恨まれるかもしれない。生きててほしい。その一言を言わない方が薄情かもしれない。葛藤はいつだって正解を選ばない。正解にしていくのはいつも、未来の自分だからだ。だから、その気のない人間は後悔するしかない。わかっている。わかってて俺はわがままを言う。
 もう日は落ちてしまった。俺たちは暗闇の中を帰るしかない。
「死なないでよ。俺、ハルがいないと寂しいよ……」
 掠れた声は、次第に涙声になり、滴る涙と一緒にハルを縛る呪いになる。わかってて言った。恨まれる覚悟も、ハルがこの先、直面するであろう様々な苦悩も背負う気もないのに、そう言った自分にがっかりした。それでも、言うしかない。俺はまだ、ハルを失う覚悟ができないのだ。
 手に持ったツナマヨおにぎりにかぶりついて、肩の震えをごまかす。それでも、堰き止めていたはずの本心を止めることはできなかった。
「なんで手術受けないんだよ。お前のすべてはピアノだけじゃないだろう」
「うん……」
「くそ馬鹿野郎」
 ハルはそれでも「うん」としか言わなかった。
「もう帰ろうか」
 泣き止んだ俺を自転車の後ろに乗せて、ハルは漕ぎだした。海のにおいを初めてその時、自覚した。流れる景色にさざ波の音。真っ暗でうっすらとしか見えない海は、なんだか恐ろしく感じる。
 こんなに大きい音を立てて波が立っていたのに、どうしてそんなことにも気づかなかったんだろう。
 いっぱい、いっぱいで何も見えてなかった。
「なぁ、無理していいのか?」
 なんとなく気になって俺は聞いてみる。
「これぐらい大丈夫」
「そうか」
 俺は泣き疲れてぐったりしていた。ハルの背中のシャツがうっすら、汗ばんで透けている。
「全部、夢だったらいいのに」
「そうだね」
 ハルは何処か他人事のようだ。
「ハルは手術を受けるの?」
「どうだろうね」
 ハル自身も迷っているのだろう。どうしたいのかわからないみたいだった。
「なぁ。ハル。俺が死んだら悲しい?」
「なにそれ? 仕返し?」
 ハルはおかしくなって笑っている。
「そうだよ」
 俺ははっきり言ってやった。
「明菫、俺ね。お前のこと大好きなんだよね」
 そういった瞬間、ハルは悲しそうに微笑んで振り返った。
「お前のこと、襲ってやりたいぐらい。結構好きなんだよ」
「マジかよ。俺のケツ、あぶねぇじゃん」
「あははっ」
 ハルは心底楽しいみたいに大声で笑った。
 帰宅後、俺とハルは、星良さんに大目玉を食らった。
「馬鹿じゃないの! 青春するのは悪くないけど、こんな遅くまで! どんだけ心配したと思ってんだ!」
 星良さんは珍しく、大声で怒鳴ってから、俺たちを抱きしめた。
「馬鹿野郎、あほ、たこ」
 星良さんは泣いていた。泣いて、震えていた。
 その時初めて、この人も女性だったことを思い出して、俺とハルは一緒になって抱き合って泣いた。
「大っ嫌い。私を置いて死のうとするやつは、みんな嫌い」
 そう言って号泣する星良さんに、ひたすら謝ることしかできなかった。
 朝起きると、つきものが落ちたような顔をしたハルがリビングにいた。
「おはよう」
「ん。明菫。俺、手術するよ」
 そういったハルの顔を見た瞬間、俺は顔が溶け出したように涙がこぼれた。
「よか……た。本当に、よかった」
 そう言って座り込んだ俺を見て、「ごめん、心配かけて」と呟いたハルは、「きっとこれでよかったんだよ」と自分を納得させているようだった。
「星良さんには言ったの?」
「うん。朝一で」
「なんて?」
 ハルは腫れた方の頬を見せて、にかっと笑った。
「当たり前じゃボケって、殴られた」
「ははっ」
目の端から雫がこぼれたのを自覚して、俺は顔を抑えつけてうめいた。
「お前が、どれだけ苦しんで決めたか、わからないなりに理解してるつもりなのに。くそ。ごめん、お前が生きてて、うれしい」
「明菫……」
 そういったハルの声は、微かに震えていた。涙を腕で乱暴に拭い、正面からハルを見た。泣いていると思ったのに、彼は唇を噛みしめて嗚咽のような震える声で一言。
「全部捨てるつもりで選んだんだ」といった。
「後悔する時が来るかもしれない、ピアノが弾けない自分に意味を見いだせないかもしれない。でも、……でも今だけは、この答えでよかったと思える。泣いてくれてありがとう」