ハルの家は何処かのジブリ映画に出てきそうな、古いけれど小じゃれた洋館だった。白い壁はくすみ、色褪せた赤い屋根と窓の多さに驚く、口ごもる。
「お前ん家って金持ちなのか?」
「古いだけだよ」
興味なさげにハル言ったけれど、こんな大きい家を叔母と二人でどうやって切り盛りしているのかが気になった。
「掃除とか、どうしてるの? っていうか、ここでマリカするの?」
「なに? マリカ、嫌なの?」
「これならバイオハザードの方が雰囲気出そうだなって」
「バイオのリメイク出てたし、そっちする?」
少しふざけながら、ハルは答えるけど、少しも笑っていなかった。きっと何かあるんだろうけど、俺は聞かなかった。
大きな扉を開いて、広い玄関を上がる。靴を玄関でそろえて、スリッパを貸してもらうと広い洋館の中を歩きだした。暗い家の中には、誰一人いない。
白い壁が長く続き、思い出したように部屋の扉が時々現れる。木製の扉は深い緑に塗られ、金色の取っ手が高級感を出していた。
白い壁と、緑の扉、あとはおしゃれな黒い窓枠に曇りガラス。この家は何かにとっていちいちおしゃれだった。
「なぁ、ハルはどうして俺を助けてくれたの?」
ハルは何も答えず、少し困ったように唸っていた。
「明菫って、人と関わるの下手だろ?」
「ああ」
「俺も下手なんだ。思ってることが、言えないんだ。お前と違って、ちゃんと言えないんだ」
暗く口を閉ざした彼に、それ以上何も聞けなかった。押し黙ると、静けさと共に不気味さが押し寄せる。
薄暗がりの廊下は、先があまり見えない。フィラメントが点灯する微小な音を聞き、廊下に明かりが点滅しだす。今までと雰囲気ががらりと変わり、それを境にハルの声のトーンも元に戻る。
「明菫って、音楽とか聴く?」
長く続く廊下の終わりが見えていた。そこにあったのは、サンルームに置かれたグランドピアノだった。
「邦楽ロック、たまに洋楽のニルバァーナ聞くぐらい」
「へぇ、かっこいいのが好きなんだ」
ハルは少しだけ笑いながら、グランドピアノにかけてあったカバーを外す。
「じゃ、聞いてよ。俺のピアノ、かっこいいからさ」
「バイオは?」
「あとでな」
そこからのハルは常軌を逸していた。滑らかに激情的に動く指。か細いのに、荒々しい音色を奏でる。かと思えば、急にじっとりとした情感を奏でる。ピアノはきっと彼のアイデンティティなのだろう。ハルは楽しそうだった。自分とは違い、情熱をもって何かに向かうその姿は、あまりにまぶしい。
少し寒いサンルームの中のピアノは、彼に弾かれて幸せだろう。様々な顔を見せてくれる。楽器なんて誰が演奏したところで変わらないのだと、見下していた自分はバカだった。
ハルが弾くから、こんなにも音が弾み、感情を表し、心を打たれるのだ。白い吐息の霧を放ち、彼は額にうっすら汗をかきながら、暗闇の中ライトアップされるその空間で、疑いようもない主人公だった。
気づけば、何時間そこにいたかわからない。
サンルームに打ち付けていた雨はやみ、次第に雲が破れていた。幕引きにお似合いの月明かりが差し込んで、彼を照らしていた。
照らされる彼は深々とお辞儀をする。その所作の美しさから、このサンルームがどうしても、劇場としか思えなくなった。
ピアノの旋律だけで、場所を選ばずその場の塗り替えてしまう圧倒的な才能。これが天才というんだと痛感する。ああ、こいつも持っている側の人間なのだと。
「聞いてくれてありがとう」
俺はあっけにとられて、口をあんぐりと開けたまま、ただ一言。
「すげぇ」とつぶやいた。
「だろ」
ハルは頬を染め、嬉しそうに俺の隣に座る。
「ピアニストになれるんじゃないか」
「簡単に言ってくれるなよ」
ハルはそういうと、いつの間にか用意していたポテトチップスとコーラを皿に盛り、そのサンルームに居座って、ピアノと音楽の話をしていた。音楽の話なんかされたって、わかりゃしないのに、不思議と苦ではなかった。
「ピアノ好きなんだろ。なればいいじゃん。もったいないよ」
そういうと、ハルは少し照れたように「なれるかな」とだけこぼした。
「お前が夜にコーラ飲んでポテチ食ってなきゃなれるんじゃないの? これはデブるだろ。デブのピアニストは人気でないと思うぞ」
俺はそうふざけていうと、「今日だけだから」とハルは元の調子に戻って笑った。
十二時を回った頃、さすがに眠くなり、トイレの場所を教えてもらい、広すぎるトイレの明かりをつけた。
あまりにも洋館といっていいほどの、豪邸なのでは金の便器なのではないか? と疑いはしたけど、ちゃんと白い便器で安心する。
便器金だったら、それはそれで品がないし。と妙な納得をして用を足し、手を洗って蛇口を閉める。しっかり閉めたけれど、ネジが緩い蛇口が水滴を止めきれずに、ぽたぽたと音を立てていた。トイレの扉も古いのか、悲鳴のような金具の音を聞いて、ぞくりと背筋を震わせた。お化けでも出るんじゃないだろうな。
「ねぇ、あんたハルの友達?」
その声に思わず、びくりと身をすくめた。心臓がどくどくと大げさに動いて、息が荒くなる。でも、すぐそれはハルのご家族だと気づいて、無理やり呼吸を整えた。
「おじゃましてます……」
「ここ、不気味でしょ?」
にやりと笑うその女性は、傷の入った眼鏡をしたモデルのような高身長。手足も長くスタイルがいいのに、服のセンスが壊滅的にダサい。芋臭さが抜けない女性だった。
「ハルのお母さんですか?」
「違うよ。あの子の両親は死んだからね。私は引き取った叔母に当たる人物さ」
その少し風変わりな口調に、少し驚きながら「ああ、ハルのおばさんなんですね?」と恐る恐る聞いてみると、少し粗目の口調で告げられる。
「おばさんって言われるの嫌い。星良って呼んでちょうだい」
「……はい」
よれた服、傷の入った眼鏡。この家とは不釣り合いな容姿に戸惑いながら返事をする。清潔感のあるハルとは、似ても似つかない。
「ハルと似てないでしょ?」
「……はい」
「あの子は、義姉似だから」
「へぇ」
星良さんは少し考え込むような仕草をとってから、俺にちょっとおいでと手招きした。
「ちょうどいいや、悪いこと教えてあげる。ハルも呼んでおいで」
悪だくみをした他人の表情というのは、身震いしてしまいもので。その夜、俺は初めて星良さんに悪いこと教えられた。
悪いことといっても、深夜のピザパーティーと麻雀。
屋敷の星良さんの部屋には、たくさんの難しそうな本に囲まれた洋風な図書室みたいだ。けれど、その静謐なる空間に、一つだけ異彩を放っているものがある。所帯じみた炬燵である。桜と猫の柄で、臙脂色をしたシックでかわいいデザインの炬燵布団の上には、麻雀の台が置かれていた。
「悪いことって」
「麻雀大会だよ」
彼女は悪い顔で微笑んだ。
まずはルール説明を受け、何もわからないなりに麻雀をやった。
星良さんはげらげら笑って、初心者な俺をぼろ負けにしていくし、ハルもハルで負けん気が強いのか、容赦がない。
気分がいいのか、涙目になって笑う彼女が、眼鏡をはずした。
その素顔は、美人そのものだった。
切れ長の目は、色素の薄いアンバーの瞳。外国の血を感じさせる白い肌には、シミ一つない。筋の通った鼻筋に、しずくの乗りそうな長いまつ毛、黒髪のビスクドールのような美人。
こんな整った顔を見たことがなかった。とっさに頬に熱がこもったのを今でも覚えている。しかし、冷静になって思い返してみる。
その首元のよれたTシャツ、ところどころ毛玉のできたスエットのズボン。美容院に行かないのだろう、髪も自分で切っているのかもしれない。ざんばら頭だった。
「なんで星良さん、きれいにしないの? 顔はいいのに」
そうふざけて言うと、星良さんはふざけたように言う。
「ルッキズムが嫌いなの、私が綺麗だから好きっていうような男や、勝手に上下関係を決めつけて、ブスに疎まれるのもめんどいし、美人に絡まれて美容がどうこうの話したくない。お酒とつまみの話がしたいのよ、私は」
そういって自身もビールをごくりと飲みほした。一番搾りが好きなのか、冷蔵庫には一番搾りが詰まっていた。空っぽになったグラスに、麻雀で負けた俺は、一番搾りの缶を取りに行く係に任命され、彼女のグラスに注ぐ。
「あんまり飲みすぎんなよ、星良」
すかさず、ハルが咎めるけど星良さんは気にも留めずに、ハルの頬にキスをした。
「明菫。この人、キス魔だから気を付けて、気が付いたら、お前、貞操まで奪われんぞ」
そう、冷静に言い放つハルを見て、俺はそっと星良さんから距離を置いた。麻雀大会は、いつの間にか野球拳になったり、大食い大会に変化していく。
「負けたから、これ飲んで」と初めて飲まされたのはレモンチューハイ。
チューハイの味は意外とジュースみたいだった。それでも数え切れないほど、麻雀で負かされると俺は気づいたら、酔っぱらっていた。
頬が赤く、心臓の音が心地よく聞こえてくる。頭がうつらうつらして、とても眠たい。
酔いつぶれて寝ていると、ハルと星良さんが話しているのが聞こえてくる。
「あんた、あの子のことずいぶん、気に入ってるようだね。あんたが学校の子にピアノを聞かせるの、見たことないよ」
「うん。そうかも」
星良さんはボロボロの眼鏡をまたかけて、煙草に火をつけた。
「ねぇ、死んだら元も子もないよ。手術受ける気ないの?」
「今はね」
ハルは悲しい声色をしていた。低く、それでいて静かな口調だった。
「あんたは兄ちゃんと義姉さんの忘れ形見だから、失いたくないのよ。——でも、あんたから何もかも奪った責任を、私は取れないから。好きにすればいいと思ってるよ」
「……星良、ありがとう」
そこまで聞くと、俺は深いまどろみの中に落ちていった。
初めて友人の家に泊まった経験をして思ったのは、酒を飲ませる女がいる家には行くな。俺は初めて二日酔いを起こして、寝込んでいた。
そのまま、ハルの家で。
「星良さん……。ハルは?」
「学校、行ったよ」
「俺を置いて?」
「人望ないねぇ」
星良さんは時々、俺のもとにジャンクフード置いて仕事場にしている部屋に戻っていく。初めて来た家で、知らない部屋の中でずっと寝かされている。しかも、こういう時はシジミ汁とか、おかゆとかじゃないのかと不満が漏れるほど、ハンバーガーなのか星良さんらしかった。
「電話しとくよ。親御さんに」
「あ、俺からしますよ。スマホ持ってるし」
そういうと、星良さんは少し怪訝そうな顔をした。
「あんたの親、もしかしてろくな人じゃないのか?」
そう言われたとき、体がこわばった。
「いえ、そんなんじゃ……」
必死に言葉を濁すけれど、上手くできない。どうしてだろう。こんなに上手く舌がまわらないのは。きっと酔いだけのせいじゃない。
「私も同じ穴の狢だから、気にすんな」
少し優しい口調で星良さんに諭されると、ああ、この人も一応年上の包容力のある大人なんだって涙ができた。
悲しくないはずなのに、上手く呼吸ができなかった。星良さんはただ黙って俺にポテトを一つ差し出してくれた。
「ポテトやるから、元気出して」
「慰め方、雑じゃないですか?」
そう言って俺は笑った。
「明菫、知ってる? ハルはあんたのことだいぶ気にかけてたの。友達になる前からずっとね」
意外な話を聞いて俺は目を丸くさせる。
「あんた、義姉さんに似てるから」
「ハルの? お母さん」
星良さんは、黙ってうなずいた。
「花世ちゃんって言ってね。思ったことをはっきり言っては、自分の言った言葉に落ち込むようなめんどくさい女だったんだよ。あき、そっくり」
俺は少し眉をひそめてそっぽを向いた。
「で? ハルはお母さんのこと好きだったの? だから、俺に構ってくれたんだ?」
星良さんは少し困ったような顔をして、言った。
「花世ちゃんは、ハルのことを愛せなかったの。でもきっとハルは花世ちゃんのこと、好きだったと思うよ」
それを聞いた瞬間、俺は飛びあがって星良さんの方に振り向いた。途端にズキっと頭が痛くなる。
「いったぁ」
「ほら、無理しないで寝ろって」
そう言って星良さんは俺を無理やり寝かせようとしたけど、俺は気になって話の続きをせがんだ。
「なんで?」
「ん?」
「なんで花世さんは、ハルを愛せなかったの?」
星良さんは困った顔をするだけで答えなかった。ただ、「私が止められていれば、ハルはきっとお母さんにもお父さんにも愛される子供でいられたの」とだけ。
「私は、花世ちゃんを責められない。責められるべきはこの家でくたばってるくせに、なかなか死なない諸悪の根源だから」
そういうと、もう寝なさいと星良さんは部屋を後にした。
「お前ん家って金持ちなのか?」
「古いだけだよ」
興味なさげにハル言ったけれど、こんな大きい家を叔母と二人でどうやって切り盛りしているのかが気になった。
「掃除とか、どうしてるの? っていうか、ここでマリカするの?」
「なに? マリカ、嫌なの?」
「これならバイオハザードの方が雰囲気出そうだなって」
「バイオのリメイク出てたし、そっちする?」
少しふざけながら、ハルは答えるけど、少しも笑っていなかった。きっと何かあるんだろうけど、俺は聞かなかった。
大きな扉を開いて、広い玄関を上がる。靴を玄関でそろえて、スリッパを貸してもらうと広い洋館の中を歩きだした。暗い家の中には、誰一人いない。
白い壁が長く続き、思い出したように部屋の扉が時々現れる。木製の扉は深い緑に塗られ、金色の取っ手が高級感を出していた。
白い壁と、緑の扉、あとはおしゃれな黒い窓枠に曇りガラス。この家は何かにとっていちいちおしゃれだった。
「なぁ、ハルはどうして俺を助けてくれたの?」
ハルは何も答えず、少し困ったように唸っていた。
「明菫って、人と関わるの下手だろ?」
「ああ」
「俺も下手なんだ。思ってることが、言えないんだ。お前と違って、ちゃんと言えないんだ」
暗く口を閉ざした彼に、それ以上何も聞けなかった。押し黙ると、静けさと共に不気味さが押し寄せる。
薄暗がりの廊下は、先があまり見えない。フィラメントが点灯する微小な音を聞き、廊下に明かりが点滅しだす。今までと雰囲気ががらりと変わり、それを境にハルの声のトーンも元に戻る。
「明菫って、音楽とか聴く?」
長く続く廊下の終わりが見えていた。そこにあったのは、サンルームに置かれたグランドピアノだった。
「邦楽ロック、たまに洋楽のニルバァーナ聞くぐらい」
「へぇ、かっこいいのが好きなんだ」
ハルは少しだけ笑いながら、グランドピアノにかけてあったカバーを外す。
「じゃ、聞いてよ。俺のピアノ、かっこいいからさ」
「バイオは?」
「あとでな」
そこからのハルは常軌を逸していた。滑らかに激情的に動く指。か細いのに、荒々しい音色を奏でる。かと思えば、急にじっとりとした情感を奏でる。ピアノはきっと彼のアイデンティティなのだろう。ハルは楽しそうだった。自分とは違い、情熱をもって何かに向かうその姿は、あまりにまぶしい。
少し寒いサンルームの中のピアノは、彼に弾かれて幸せだろう。様々な顔を見せてくれる。楽器なんて誰が演奏したところで変わらないのだと、見下していた自分はバカだった。
ハルが弾くから、こんなにも音が弾み、感情を表し、心を打たれるのだ。白い吐息の霧を放ち、彼は額にうっすら汗をかきながら、暗闇の中ライトアップされるその空間で、疑いようもない主人公だった。
気づけば、何時間そこにいたかわからない。
サンルームに打ち付けていた雨はやみ、次第に雲が破れていた。幕引きにお似合いの月明かりが差し込んで、彼を照らしていた。
照らされる彼は深々とお辞儀をする。その所作の美しさから、このサンルームがどうしても、劇場としか思えなくなった。
ピアノの旋律だけで、場所を選ばずその場の塗り替えてしまう圧倒的な才能。これが天才というんだと痛感する。ああ、こいつも持っている側の人間なのだと。
「聞いてくれてありがとう」
俺はあっけにとられて、口をあんぐりと開けたまま、ただ一言。
「すげぇ」とつぶやいた。
「だろ」
ハルは頬を染め、嬉しそうに俺の隣に座る。
「ピアニストになれるんじゃないか」
「簡単に言ってくれるなよ」
ハルはそういうと、いつの間にか用意していたポテトチップスとコーラを皿に盛り、そのサンルームに居座って、ピアノと音楽の話をしていた。音楽の話なんかされたって、わかりゃしないのに、不思議と苦ではなかった。
「ピアノ好きなんだろ。なればいいじゃん。もったいないよ」
そういうと、ハルは少し照れたように「なれるかな」とだけこぼした。
「お前が夜にコーラ飲んでポテチ食ってなきゃなれるんじゃないの? これはデブるだろ。デブのピアニストは人気でないと思うぞ」
俺はそうふざけていうと、「今日だけだから」とハルは元の調子に戻って笑った。
十二時を回った頃、さすがに眠くなり、トイレの場所を教えてもらい、広すぎるトイレの明かりをつけた。
あまりにも洋館といっていいほどの、豪邸なのでは金の便器なのではないか? と疑いはしたけど、ちゃんと白い便器で安心する。
便器金だったら、それはそれで品がないし。と妙な納得をして用を足し、手を洗って蛇口を閉める。しっかり閉めたけれど、ネジが緩い蛇口が水滴を止めきれずに、ぽたぽたと音を立てていた。トイレの扉も古いのか、悲鳴のような金具の音を聞いて、ぞくりと背筋を震わせた。お化けでも出るんじゃないだろうな。
「ねぇ、あんたハルの友達?」
その声に思わず、びくりと身をすくめた。心臓がどくどくと大げさに動いて、息が荒くなる。でも、すぐそれはハルのご家族だと気づいて、無理やり呼吸を整えた。
「おじゃましてます……」
「ここ、不気味でしょ?」
にやりと笑うその女性は、傷の入った眼鏡をしたモデルのような高身長。手足も長くスタイルがいいのに、服のセンスが壊滅的にダサい。芋臭さが抜けない女性だった。
「ハルのお母さんですか?」
「違うよ。あの子の両親は死んだからね。私は引き取った叔母に当たる人物さ」
その少し風変わりな口調に、少し驚きながら「ああ、ハルのおばさんなんですね?」と恐る恐る聞いてみると、少し粗目の口調で告げられる。
「おばさんって言われるの嫌い。星良って呼んでちょうだい」
「……はい」
よれた服、傷の入った眼鏡。この家とは不釣り合いな容姿に戸惑いながら返事をする。清潔感のあるハルとは、似ても似つかない。
「ハルと似てないでしょ?」
「……はい」
「あの子は、義姉似だから」
「へぇ」
星良さんは少し考え込むような仕草をとってから、俺にちょっとおいでと手招きした。
「ちょうどいいや、悪いこと教えてあげる。ハルも呼んでおいで」
悪だくみをした他人の表情というのは、身震いしてしまいもので。その夜、俺は初めて星良さんに悪いこと教えられた。
悪いことといっても、深夜のピザパーティーと麻雀。
屋敷の星良さんの部屋には、たくさんの難しそうな本に囲まれた洋風な図書室みたいだ。けれど、その静謐なる空間に、一つだけ異彩を放っているものがある。所帯じみた炬燵である。桜と猫の柄で、臙脂色をしたシックでかわいいデザインの炬燵布団の上には、麻雀の台が置かれていた。
「悪いことって」
「麻雀大会だよ」
彼女は悪い顔で微笑んだ。
まずはルール説明を受け、何もわからないなりに麻雀をやった。
星良さんはげらげら笑って、初心者な俺をぼろ負けにしていくし、ハルもハルで負けん気が強いのか、容赦がない。
気分がいいのか、涙目になって笑う彼女が、眼鏡をはずした。
その素顔は、美人そのものだった。
切れ長の目は、色素の薄いアンバーの瞳。外国の血を感じさせる白い肌には、シミ一つない。筋の通った鼻筋に、しずくの乗りそうな長いまつ毛、黒髪のビスクドールのような美人。
こんな整った顔を見たことがなかった。とっさに頬に熱がこもったのを今でも覚えている。しかし、冷静になって思い返してみる。
その首元のよれたTシャツ、ところどころ毛玉のできたスエットのズボン。美容院に行かないのだろう、髪も自分で切っているのかもしれない。ざんばら頭だった。
「なんで星良さん、きれいにしないの? 顔はいいのに」
そうふざけて言うと、星良さんはふざけたように言う。
「ルッキズムが嫌いなの、私が綺麗だから好きっていうような男や、勝手に上下関係を決めつけて、ブスに疎まれるのもめんどいし、美人に絡まれて美容がどうこうの話したくない。お酒とつまみの話がしたいのよ、私は」
そういって自身もビールをごくりと飲みほした。一番搾りが好きなのか、冷蔵庫には一番搾りが詰まっていた。空っぽになったグラスに、麻雀で負けた俺は、一番搾りの缶を取りに行く係に任命され、彼女のグラスに注ぐ。
「あんまり飲みすぎんなよ、星良」
すかさず、ハルが咎めるけど星良さんは気にも留めずに、ハルの頬にキスをした。
「明菫。この人、キス魔だから気を付けて、気が付いたら、お前、貞操まで奪われんぞ」
そう、冷静に言い放つハルを見て、俺はそっと星良さんから距離を置いた。麻雀大会は、いつの間にか野球拳になったり、大食い大会に変化していく。
「負けたから、これ飲んで」と初めて飲まされたのはレモンチューハイ。
チューハイの味は意外とジュースみたいだった。それでも数え切れないほど、麻雀で負かされると俺は気づいたら、酔っぱらっていた。
頬が赤く、心臓の音が心地よく聞こえてくる。頭がうつらうつらして、とても眠たい。
酔いつぶれて寝ていると、ハルと星良さんが話しているのが聞こえてくる。
「あんた、あの子のことずいぶん、気に入ってるようだね。あんたが学校の子にピアノを聞かせるの、見たことないよ」
「うん。そうかも」
星良さんはボロボロの眼鏡をまたかけて、煙草に火をつけた。
「ねぇ、死んだら元も子もないよ。手術受ける気ないの?」
「今はね」
ハルは悲しい声色をしていた。低く、それでいて静かな口調だった。
「あんたは兄ちゃんと義姉さんの忘れ形見だから、失いたくないのよ。——でも、あんたから何もかも奪った責任を、私は取れないから。好きにすればいいと思ってるよ」
「……星良、ありがとう」
そこまで聞くと、俺は深いまどろみの中に落ちていった。
初めて友人の家に泊まった経験をして思ったのは、酒を飲ませる女がいる家には行くな。俺は初めて二日酔いを起こして、寝込んでいた。
そのまま、ハルの家で。
「星良さん……。ハルは?」
「学校、行ったよ」
「俺を置いて?」
「人望ないねぇ」
星良さんは時々、俺のもとにジャンクフード置いて仕事場にしている部屋に戻っていく。初めて来た家で、知らない部屋の中でずっと寝かされている。しかも、こういう時はシジミ汁とか、おかゆとかじゃないのかと不満が漏れるほど、ハンバーガーなのか星良さんらしかった。
「電話しとくよ。親御さんに」
「あ、俺からしますよ。スマホ持ってるし」
そういうと、星良さんは少し怪訝そうな顔をした。
「あんたの親、もしかしてろくな人じゃないのか?」
そう言われたとき、体がこわばった。
「いえ、そんなんじゃ……」
必死に言葉を濁すけれど、上手くできない。どうしてだろう。こんなに上手く舌がまわらないのは。きっと酔いだけのせいじゃない。
「私も同じ穴の狢だから、気にすんな」
少し優しい口調で星良さんに諭されると、ああ、この人も一応年上の包容力のある大人なんだって涙ができた。
悲しくないはずなのに、上手く呼吸ができなかった。星良さんはただ黙って俺にポテトを一つ差し出してくれた。
「ポテトやるから、元気出して」
「慰め方、雑じゃないですか?」
そう言って俺は笑った。
「明菫、知ってる? ハルはあんたのことだいぶ気にかけてたの。友達になる前からずっとね」
意外な話を聞いて俺は目を丸くさせる。
「あんた、義姉さんに似てるから」
「ハルの? お母さん」
星良さんは、黙ってうなずいた。
「花世ちゃんって言ってね。思ったことをはっきり言っては、自分の言った言葉に落ち込むようなめんどくさい女だったんだよ。あき、そっくり」
俺は少し眉をひそめてそっぽを向いた。
「で? ハルはお母さんのこと好きだったの? だから、俺に構ってくれたんだ?」
星良さんは少し困ったような顔をして、言った。
「花世ちゃんは、ハルのことを愛せなかったの。でもきっとハルは花世ちゃんのこと、好きだったと思うよ」
それを聞いた瞬間、俺は飛びあがって星良さんの方に振り向いた。途端にズキっと頭が痛くなる。
「いったぁ」
「ほら、無理しないで寝ろって」
そう言って星良さんは俺を無理やり寝かせようとしたけど、俺は気になって話の続きをせがんだ。
「なんで?」
「ん?」
「なんで花世さんは、ハルを愛せなかったの?」
星良さんは困った顔をするだけで答えなかった。ただ、「私が止められていれば、ハルはきっとお母さんにもお父さんにも愛される子供でいられたの」とだけ。
「私は、花世ちゃんを責められない。責められるべきはこの家でくたばってるくせに、なかなか死なない諸悪の根源だから」
そういうと、もう寝なさいと星良さんは部屋を後にした。
