塩対応な先輩とおれの甘い誤算

 急がなきゃ、とおれは小走りで廊下を進んでいた。

「恵花(えはな)ぁ~廊下は走るな~」
「はい! すみません!」
「耀(よう)きゅんばいばーい! また明日ぁ」
「奈緒ちゃん、ばいばい!」

 隣のクラスの担任に注意されて速度を緩めながらも、クラスメイトの奈緒ちゃんに手を振りながらも、歩みは止めない。今日は日直だったから、日誌を書くのに手間取ってしまった。

 こうして急いでいるのは、バドミントン部の一年生は先輩がやってきて練習を始める前に、体育館床のモップ掛けをしなければならないからだ。
 高校に入って、中学のときよりも上下関係の厳しさは減った気がする。しかし先輩たちがおれたち後輩を可愛がってくれるのは、基本的な礼儀やルールを守っていることが前提だろう。

 焦る気持ちのまま階段を下りて、体育館に向かって方向転換しようとしたときだった。

「あっ」
「痛(い)ってー……」

 廊下を歩いていた男子生徒にぶつかってしまった。しかもシャツについている校章の刺繍の色は緑。一学年上の先輩だ。
 さっと青褪めて、ずいぶんと高い位置にある顔を見上げる。長めの髪はハーフアップになっていた。

「ごめんなさい!」
「……チッ」
「怖い怖いっ、湊斗(みなと)くん。先輩なんだからさぁ~、後輩には優しくしてあげなよ? ね、君一年生でしょ?」

 パーツの整った顔が不機嫌そうに舌打ちをこぼす。咄嗟に「怖い先輩だ!」と涙目になった。
 おれがヨロヨロと後ずさりしていると、先輩の後ろからもう一人先輩が出てきて肩を組んだ。こっちは髪がパーマでふわふわしていて、陽気な感じで怖くない。

 訊かれたことに頷きながらも、湊斗と呼ばれた先輩にもう一度「あの、すみませんでした……」と謝った。

「じゃ、俺用事あるから帰るわ」
「ええっ、またデート!? 最近週三じゃん……俺にも構ってよぉぉ」

 湊斗先輩はおれをまるっきり無視して、玄関の方へと足を向ける。近くにいた女子たちが「英(はなぶさ)先輩、やっぱり彼女いるんだ……」「当然っしょ」と会話しているのが聞こえた。

(英湊斗……? なんか聞いたことあるかも)

 こて、と首を傾げて記憶を掘り返してみるも、すぐには思い出せない。なにせおれは、まだ入学して半年も経っていないピカピカの新入生である。

「さらさら髪の一年生君、代わりに俺と遊ぶ~? それとも急いでるんだっけ」
「……あーっ! 失礼しますっ」

 ふわふわ髪の先輩が身体を屈めておれの顔を覗き込んでくる。途端に部活のことを思い出し、そこからは猛ダッシュで体育館に向かった。



 部活を終え、自転車に乗って家までの道をのんびりと漕いでいる。長い夏は九月になってもなお暑さを残しているが、夕方以降は結構涼しくなってきたと思う。
 気持ちのいい季節だ。けれど今日も練習はきつかった。

(真剣にやってるつもりなのに「ぼーっとするな!」って、顧問に怒られるんだもんなぁ……。準備にちょっと遅れて到着したの、見られてたのかも)

 仲間は気にするなと言ってくれたけど、思い返すだけで気持ちはしおしおと沈んでいく。顧問は厳しい人だからこういうことは頻繁にあって、ずっと落ち込んでいても意味がないと自分でも分かっている。

 だからこそ、おれには気持ちを切り替えるルーティンがあった。それは――甘い物を食べて帰ることだ。

「ふふんふ~んっ、ドーナッツの丸は幸せの丸ぅ~……え!!」

 家の割と近くにある、大通り沿いにあるドーナツチェーン店は臨時休業していた。ドアの真ん前まで行って貼り紙を見ると、改装があるとかで一ヶ月も休業らしい。

「しょっくだ……ど、どうすれば……」

 よろよろと自転車に跨り、ひとり悲しみを受け止める。コンビニでスイーツを買って家で食べるのもありだけど、外で食べてから帰るのがいい気分転換になるのだ。
 しかも完全にドーナツの舌になっている。気分的に他のものは受け付けそうにない。

(諦めてコンビニでドーナツを買うしかないか……)

 再び自転車を漕ぎながら代替案を考えていると、大通りから一本裏へ入ったところに小さなお店があることに気づいた。

 妙にお洒落な雰囲気を醸し出していて、すごく気になった。いつの間にできたんだろう?
 ふらふら近づいて、それが何の店か分かったとき……おれは目をまん丸に見開いた。

「ドーナツの店だ!」

 コンクリート打ちっぱなしの壁に『Glaze Holic(グレイズホリック)』と書かれている。ガラス張りの扉の向こうには、色とりどりのドーナツが宝石のように並んでいた。

 小さな店だ。もう閉店間際なのかもしれず、他に客はいないようだった。邪魔にならない場所に自転車を止めて、吸い寄せられるように扉を開けた。

「いらっしゃいませ」
「ふぁぁぁ……!」

 チェーン店のドーナツとは一線を画す、繊細なデコレーションのドーナツがいくつも並んでいる。数こそ少なくなっているがどれも可愛らしくて、子どものころ、大好きなおもちゃ箱を開けたときのようにわくわくする。
 たっぷりの生クリーム、パステルカラーのアイシング、エディブルフラワーの乗ったドーナツ。

 おれの目はキラッキラになった。

 いらっしゃい、と声を掛けてくれたのはレジにいた男性で、おれの反応ににこにことしていた。お洒落な七三にセットされた黒髪に、お洒落な髭。イケオジという代名詞がぴったりな感じで、デニム生地のエプロンをつけていた。
 店内もコンクリート打ちっぱなしで、全体的にハイセンスだ。

 狭いながらも、見ると奥の方に小さなイートインスペースまであった。

(やったぁ、食べていけるんだ!)

 ちょっとお高めだから一個で我慢しよう。ああでも、全部食べてみたい……!
 自然と口角が上がり、るんるんで幸せな悩みを噛みしめる。やっぱりまずは定番を、と一番シンプルそうなグレーズドーナツを選んだ。

「あの、イートインしたいんですけど……」
「オーケー。あと三十分で閉店だけど大丈夫?」
「はい!」

 カフェオレも注文して奥の席に座った。カウンターテーブルの上には小さな花瓶に花まで飾ってあり、なんとも映えそうな感じだ。
 空間がお洒落すぎて場違い感はあったが、美味しいもののためなら多少の恥ずかしさは耐えられる。……他に人がいなくてよかったぁ。

 すぐに男性が飲み物とドーナツを持ってきてくれて、「わぁっ」とまた感嘆の声を出してしまった。
 ビビッドなカラーのお皿に乗った、つやつやのグレーズドーナツ。グレーズが側面に垂れた感じが絶妙で、たまらなく美味しそうなのだ。

「う……っまぁ……!」

 シャク、とした感触のグレーズとふわもちなドーナツ生地。噛むと口の中で溶けていくような食感で、これが「飲めるドーナツ」というやつなのかもしれない。味も食感もびっくりするくらい美味しい。

 なくなるのが悲しいほどだったけど、夢中で食べ切った。儚く、至福の時間だった。
 適温になったカフェオレをゆっくり飲んでも、十分ほどしか経っていない。閉店までまだ時間はあるが、長居すると迷惑だろう。

 おれがトレーを下げようと立ち上がったとき、すぐ後ろのバックヤードからゴミ袋を持った人が出てきた。ぶつかりそうになって「わ!」と避ける。

「すみません、大丈夫ですか? ……って、お前は……」
「……え?」

 誠実そうな声が一転、訝しげになったと思いきや、振り向いた先にいたのは爽やかな美形だった。焦げ茶色の少し長い髪はひとつ結びで、黒いシャツにデニム生地のエプロンをつけている。
 レジにいたイケオジと同じ格好だからここの制服なのだろう。――っていうか、顔に見覚えがあるんだけど……

 ガン見されておれはきょと、と目を丸くする。おれのことを知っているということは同じ学校の人? あ、そういえば。部活前にぶつかった、塩対応の……

「みなと、先輩……?」
「は? 馴れ馴れしく呼ぶな。おいお前、俺がここにいるって知ってて来たのか?」

 ふわふわ髪の先輩に「湊斗」と呼ばれていたことを思い出し口にするも、キッと睨まれてしまった。
 ゴミ袋を脇に置き、一歩迫ってくる。まだまだ成長期のおれは痛いほど首を反らせて、不機嫌そうな顔を恐る恐る見上げた。

(やっぱり怖い先輩だ!)

「し、知りません……おれは今日、偶然ここを見つけてっ」
「ふーん。じゃあ誰にも言うなよ。ここにももう来るな」

 先輩は眉間に皺を寄せ、一方的に命令してくる。すっと目を逸らし、ゴミ袋を再び持って裏口に向かおうとする姿にムッとした。

 別にこの人を追いかけてきたわけじゃないし、バイト先を言いふらすつもりもない。考えもしなかったことを禁止されて、なんなんだと言いたくなる。
 しかも「もう来るな」だって? まさか先輩の店じゃないだろう。おれは先輩の背中に向かって「おい、英湊斗!」と声を上げた。

「……は?」
「あんたにそんなこと言われる筋合いない。おれは純粋にドーナツを楽しんでたんだ。食べに来るのはおれの勝手だ!」

 なんでフルネームで呼んでしまったのかは自分でも分からない。ぎゅっと両手を握り、慣れない啖呵を切って、ふんっと鼻息を吐く。

 言ってやったぞと満足してトレーを返そうとすると、いつの間にかこちらを見ていたイケオジさんが「そのままでいいよ~。また来てね~」と言ってくれた。ぺこりと会釈して店を出た。

 ぐっと涼しくなった夜風に、火照った頬が冷やされていく。学校の先輩に逆らうようなことを言ってしまった後悔が、さっそく押し寄せてきた。部活の先輩じゃないし大丈夫だよね……?
 
 イケオジさんが店長なのかもしれない。また来て、と言ってくれて良かった。今さらながら、安堵が胸の中に広がっていく。
 出禁になったら泣いてしまうところだった。

(あの先輩はむかつくけど、ドーナツは本当に、奇跡みたいに美味しかったしな……)

 もういい時間だ。さっきのことは一旦忘れようと、おれは夜道を自転車ですいすい駆け抜けた。
 お腹は甘い幸福で満たされて、部活の疲れも落ち込んでいたことも、いつの間にかすっかりと忘れていた。