ハ シ ル !

 11月末。
 本番を一週間後に控えた土曜日。
 いくつかの市町村が集まって本番と同じ距離を走る、合同練習があった。

 全員揃っての練習は、これが最初で最後だった。

「遥香先輩!」

 会場に着くと、真っ先に陽菜ちゃんが駆け寄ってきた。
 また更に髪が短くなった気がする。

「おはよ。陽菜ちゃん」
「おはようございます!これ遥香先輩のハチマキ」

 手渡されたのは真っ白なハチマキ。

「ハチマキ……巻くの?」
「らしいですよ」

 見渡すと、飛鳥や他の代表も手に持っていた。

「マジかぁ」
「ちょっと恥ずいですよね。ほら見てください」
 そう言って陽菜ちゃんが自分の額にハチマキを当ててみせる。
「陽菜ちゃんは似合いすぎ」
「あははっ、やっぱりですか?」
 陽菜ちゃんは上機嫌で「ねぇねぇ見てー!」と奏馬くんや大平さんの元に駆けて行った。

 白いハチマキに視線を落とす。
 私には、それがまだ勝負の象徴にしか見えなくて、ポケットにしまった。


 通し練習は、一度だけだった。
 それぞれの区間距離のタイムと、合計タイムが記録される。

 これまでの記録会で、私は自分のタイムを一度も確認していない。
 だけど今日は堂々とホワイトボードに書かれる。
 小さくため息が漏れた。

 1区の小学生女子から順番に、2区、3区と走っていく。
 4区、飛鳥。
 5区、陽菜ちゃん。
 6区、奏馬くん。
 7区、私。
 8区、父。
 9区、大平さん。

 全員走り終わると、ホワイトボードにはタイムがズラリと並んだ。

 陽菜ちゃんだけが、走り終わったあとに確認して軽く頷いていたけれど、他は誰ひとりタイムを見ていなかった。

 ホワイトボードそっちのけで、ハチマキにメッセージを書き合っている。
 私は、少し離れた場所でその光景を眺めていた。
 みんな、楽しそう——


「遥香ちゃん、おつかれさま」
 振り向くと、奏馬くんのお母さんだった。

「あ、奏馬くんの……おつかれさまです」
 確か、紗雪《さゆき》さん。
 会うのは説明会の日以来だ。
 頭を下げる。
 紗雪さんは私の隣に立つと、陽菜ちゃんと戯れ合う奏馬くんを見た。

「あの子、本当に走るのが楽しいみたい」
 そう言って、奏馬くんに手を振る。
 私は黙ってそれを見ていた。

「生まれてすぐ、あの子入院してたのよ」
「……え」
「あっ、すぐ退院したし今はもうあの通り元気よ」
 私は奏馬くんを目で追いかけた。
 走り回っている。

「子どもの成長って、早いわ本当」
 紗雪さんはそう言うと「あ!こら奏馬!」と少し声を荒げた。

 奏馬くんは、紗雪さんの気持ちや視線を、どこまで理解しているのか分からない。
 だけど、奏馬くんの笑顔は、全ての答えのような気がした。

 紗雪さんがこの場を離れる直前、私を見て言った。
「奏馬を見てると、昔の遥香ちゃんを思い出すよ」

 ——昔?

「ふふ。やっぱり覚えてないか」

 そういえば、奏馬くんも紗雪さんから私のことを“速い子”だと聞いた、と言っていた。
 どこかで会ったこと……

「私、小学生の遥香ちゃんと襷を繋いだことがあるの」

「え?襷を?」

 私は記憶を辿るように、下を向いた。
 
 一度だけ走った県民駅伝。
 確か私は、小さな子どもを連れたママさんランナーに、襷を繋いだ——
 あの時の……。
 
 両手で口を押さえた。

 ここにもいた。
 かつて一緒に襷を繋いだ人が。
 飛鳥だけじゃ、なかった。

 紗雪さんが、ふっと目を細めた。
「だから、思い出すのよ」

 私は顔を上げる。

「あの頃の遥香ちゃん、今の奏馬と同じ顔してた」

 紗雪さんはそう言い残し、奏馬くんの元へ歩いていった。

 あの頃の私——

 グラウンドの端でお互いのハチマキ姿を指差して笑い合う代表メンバーがいる。
 奏馬くんも、陽菜ちゃんも、大平さんも、飛鳥も——父も。

 近くにいるはずのみんなが、私には随分と遠くに感じた。
 どんなに手を伸ばしても、襷を渡せないような。

 私は、ホワイトボードからもみんなからも、目を逸らした。

 ポケットからハチマキを取り出す。

 握る手に、力が入った。



 今の私は——どんな顔をして、走っているんだろう。