ハ シ ル !

 家に帰ると、下駄箱を開けた。
 靴ひもが、劣化して千切れそうなところがあった。

 確か替えの靴ひもが——

「帰ったの? 遥香」

 菜箸を持ったままの母が、リビングから顔を覗かせている。
 奥から、フライパンの上で水分が蒸発するような音が微かに聞こえた。

「うん。ただいま。お母さん、替えの靴ひも無かったっけ?」

 そう聞くと、母は顔を引っ込め、数秒してから廊下へ出てきた。
 エプロンで手を拭きながら玄関へ歩いてくる。
 菜箸は置いてきたようだ。

「靴ひもねー、ランニングシューズのでしょう?」
「そう。千切れそうで……」

 母は軽く背伸びをし、下駄箱の更に上に手を伸ばした。
 そこに積んであった箱を指先で持つようにして、下ろした。
 埃をかぶっている。

 玄関タイルの上で蓋を開けると、少しだけツンとした土のような匂いが広がった。

「確かこの中に……あ、あったあった」

 箱の中には、古びたランニングシューズと、小袋のままの新品の靴ひもが入っていた。
 私はついその箱を覗き込む。

「誰のシューズ?」
「んー?私のよ」

 ——え。

 底の厚さ、アッパーの薄さ。
 箱に窮屈そうに並べられたそのシューズは、とても軽いジョギングで使うような物には見えなかった。

「お母さんって……マラソン、ガチ勢だった?」
 私の言葉に、母は「実業団までよ。ほどほどにね」と笑った。

「え、実業団?!」

 つい大きな声が出る。
 全く、知らなかった。

 確かに一緒に市民マラソンを走った。
 でもそれ以外で母が走っているところなんて、見たことが無かった。

 実業団までやったら、それはもうほどほどではない気がするけど。

 どこか懐かしそうに箱の中身を見つめる母。

「実業団までやってたのに、辞めちゃったんだ?」

 母は、箱から靴ひもの入った小袋を出した。

「そうね」
「嫌になったから?」
「そういう訳じゃないけど、辞めちゃったわね」

 母は、シューズの汚れを手で擦りながら、微笑んだ。

 好きなのに、辞めることなんてあるんだ。

 私が黙り込んでいると、母が続けた。
「辞めたことは、なにも後悔してないのよ」
「え……」
「長く続けることだけが正解じゃないもの」

 シューズが入った箱は、また蓋をかぶせられた。
 軽々と持ち上げる母の手つきは、いつになく優しかった。

「靴ひも、これでいい?」

 手渡された小袋。
 私のオレンジ色のシューズとは合わないような、蛍光ピンクの靴ひもだった。

「あ…うん、ありがと」

 母が小さく微笑む。
 私は、下駄箱の上の箱をもう一度だけ見た。
 また蓋を開ける日は、くるのだろうか。

 リビングに入ると、生姜と醤油の焼けるような匂いがした。

「あらら、少し焦げちゃったわ」

 私はカウンターの外側から、フライパンを覗いた。

「本当だ。生姜焼き?」
「そう。まあ、これならセーフかな。焦げたのはお父さんに食べてもらおうかしら」

 そう言って、ふんふーんと体を揺らす母。
 母の鼻歌も、少しだけ音がズレている。

 それを聞いていたら、自分の汗のにおいが気になった。
 シャワー浴びてこようかな。
 
 チラと母を見る。

「……ねぇお母さん」

 お皿が三枚、カウンターに並んだ。

「もう、走らないの?」

 母は生姜焼きをお皿に取り分けながら、答えた。


「走らないんじゃなくて、走ってないだけよ」

「それ、……」

 ——同じでしょ
 
 言いかけて、やめた。
 飛鳥も、似たようなことを言っていた気がする。
 私には、同じに思えるのに。


 何が違うの。