飛鳥から連絡があったのは10月末のことだった。
日曜一緒に走りに行こうってメッセージには書いてあったけれど、集合場所に指定されたのは地元の駅。
私のオレンジのランニングウェアとシューズが場違いに思えて、敷地内にあるコンビニの裏からロータリーを覗いた。
飛鳥のやつ、どこに——……
「誰か尾行してる?」
「うわぁ!!!」
背後から声をかけられ、思わず数歩飛び出す。
声の主は飛鳥だった。
「びっくりした!急に声かけないでよ」
私はめくれあがった前髪を整えながら言った。
「え、ごめん。今から声かけまーすって言えば良かった?」
「ねぇうざいよ」
「ハハ」
相変わらずの調子で笑いながら、飛鳥は駅構内へ向かって先に歩き出した。
その背中を私は慌てて追いかける。
すれ違う人も、ホームに見える人影も。
みんなおしゃれをしている気がする。
前方に視線を送れば、無機質な駅構内に、飛鳥のブルーのランニングウェアが浮いていた。
「ねぇ、走るんじゃないの?」
たまらず私が声を掛けると、飛鳥はチラと私を振り返り、また前を向いた。
「走るよ」
「駅を?」
「ちがう」
飛鳥は流れるように改札にスマホをかざす。
ゲートが開き、そのまま改札の内側へ。
「え…ちょっと待って」
改札を通る準備をしていなかった私は、もたついてしまう。
チャージ、してあったかな。
最小限の荷物しか無いはずなのに、すぐにスマホが出てこない。
「どうせならさ、景色がいいとこ走ろうよって話」
飛鳥の少しだけ大きな声に、顔を上げる。
改札の向こう側で、飛鳥が白い歯を見せていた。
ようやく取り出したスマホが、手から滑り落ちそうになった。
三十分ほど電車に揺られ、そこからバスで十五分。
たどり着いたのは、地元を象徴する大きな川が流れる河川敷だった。
すぐ隣には、その流れを見守るように山がそびえ、見上げれば頂に白い天守がちょこんと腰掛けている。
ロープウェーの赤いゴンドラが見えた。
「……なにここ」
「知らない?メダリストロード」
「それは知ってるけど」
「俺、たまに走りに来る」
そう言うと、飛鳥は屈伸を始めた。
いつかのオリンピックメダリストが昔走ったこの河川敷を、地域貢献と称してランニングしやすい形に整えた——確か、そんな場所。
「ふーん……」
つられるように、私もストレッチをする。
飛鳥がくくっと笑うから、膝裏を軽く蹴っておいた。
走り始めると、私の耳にはたくさんの音が流れ込んできた。
川に架かる橋を通る車の走行音。
交差点の信号から鳴る鳥のさえずり。
流れる水の音。
すれ違う他のランナーの息づかい。
スケートボードのタイヤの音。
走ったことないはずの場所なのに、なぜか懐かしい気持ちになった。
私のペースに合わせて走っている飛鳥からは、余裕があるのか、鼻歌が聞こえる。
「飛鳥」
「んー?」
「なんでここ走るの」
「え。だから、景色」
「それだけ?」
「他に何があんの」
「いや……」
あまりに当然のように言われ、私はそれ以上の言葉が出なかった。
景色、か。
桜。
ふとそんなものを思い出した。
初めて母に手を引かれ走った。
たった3キロの市民マラソンだった。
おそろいのTシャツを着て。
途中なんか歩いていたし、頭上を舞う桜の花びらにずっと気を取られていた。
私は多分、マラソンだなんて思っていなかった。
ただ、母と手を繋いで桜の下を走った。
そんな光景だけを、覚えていた。
私は視線の先に目を凝らす。
桜も無ければ、折り返し地点もない。
川と、続く堤防と、その奥にかかるいくつもの橋だけ。
この河川敷は、あの3キロよりずっと長いのに。
なんでかな。
帰りはバスには乗らずに駅まで歩いた。
というか、走った。
さすがに汗だくでバスには乗れない。
ホームで電車を待つ間も、自分のにおいが気になって仕方なかった。
電車を待つ列からは少し離れた場所で、二人並んだ。
「汗だくで電車とか本当、ナイ」
「ごめんって。電車は連結のとこでやり過ごそ」
「当たり前じゃん。恥ずかしすぎる」
「汗ふきシート買ったんだから、怒るなよ」
今度は腕をグーで殴ったら「暴力反対」と言い返された。
そのうち飛鳥がぽつりと言う。
「今日どれくらい走ったかな」
私はスマートウォッチを確認した。
思ったより走っていた。
あっという間、だった気がした。
それに——楽しかった。……たぶん。
顔を上げると、飛鳥が私を見ていた。
「なに?」
飛鳥は「べつに」とそっぽを向いた。
朝よりも、襟足が跳ねている。
「飛鳥ってさ、」
また、目が合う。
「なんで陸上続けてるの?」
私の問いかけに、飛鳥は「なんで…」と右上にある電光掲示板を見た。
そして、笑う。
「なんでだろ」
ホームにアナウンスが響く。
誰かが階段を駆け上がる。
それを眺める飛鳥を、見つめた。
飛鳥は、ただ景色が見たくてここまで来た。
そのくせ続けてる理由も分かっていない。
私には、辞める理由なんていくらでもあったのに。
また、飛鳥の呑気な鼻歌が隣から聞こえてきた。
「……音痴」
私のランニングシューズの紐は、少しだけ、ほどけていた。
日曜一緒に走りに行こうってメッセージには書いてあったけれど、集合場所に指定されたのは地元の駅。
私のオレンジのランニングウェアとシューズが場違いに思えて、敷地内にあるコンビニの裏からロータリーを覗いた。
飛鳥のやつ、どこに——……
「誰か尾行してる?」
「うわぁ!!!」
背後から声をかけられ、思わず数歩飛び出す。
声の主は飛鳥だった。
「びっくりした!急に声かけないでよ」
私はめくれあがった前髪を整えながら言った。
「え、ごめん。今から声かけまーすって言えば良かった?」
「ねぇうざいよ」
「ハハ」
相変わらずの調子で笑いながら、飛鳥は駅構内へ向かって先に歩き出した。
その背中を私は慌てて追いかける。
すれ違う人も、ホームに見える人影も。
みんなおしゃれをしている気がする。
前方に視線を送れば、無機質な駅構内に、飛鳥のブルーのランニングウェアが浮いていた。
「ねぇ、走るんじゃないの?」
たまらず私が声を掛けると、飛鳥はチラと私を振り返り、また前を向いた。
「走るよ」
「駅を?」
「ちがう」
飛鳥は流れるように改札にスマホをかざす。
ゲートが開き、そのまま改札の内側へ。
「え…ちょっと待って」
改札を通る準備をしていなかった私は、もたついてしまう。
チャージ、してあったかな。
最小限の荷物しか無いはずなのに、すぐにスマホが出てこない。
「どうせならさ、景色がいいとこ走ろうよって話」
飛鳥の少しだけ大きな声に、顔を上げる。
改札の向こう側で、飛鳥が白い歯を見せていた。
ようやく取り出したスマホが、手から滑り落ちそうになった。
三十分ほど電車に揺られ、そこからバスで十五分。
たどり着いたのは、地元を象徴する大きな川が流れる河川敷だった。
すぐ隣には、その流れを見守るように山がそびえ、見上げれば頂に白い天守がちょこんと腰掛けている。
ロープウェーの赤いゴンドラが見えた。
「……なにここ」
「知らない?メダリストロード」
「それは知ってるけど」
「俺、たまに走りに来る」
そう言うと、飛鳥は屈伸を始めた。
いつかのオリンピックメダリストが昔走ったこの河川敷を、地域貢献と称してランニングしやすい形に整えた——確か、そんな場所。
「ふーん……」
つられるように、私もストレッチをする。
飛鳥がくくっと笑うから、膝裏を軽く蹴っておいた。
走り始めると、私の耳にはたくさんの音が流れ込んできた。
川に架かる橋を通る車の走行音。
交差点の信号から鳴る鳥のさえずり。
流れる水の音。
すれ違う他のランナーの息づかい。
スケートボードのタイヤの音。
走ったことないはずの場所なのに、なぜか懐かしい気持ちになった。
私のペースに合わせて走っている飛鳥からは、余裕があるのか、鼻歌が聞こえる。
「飛鳥」
「んー?」
「なんでここ走るの」
「え。だから、景色」
「それだけ?」
「他に何があんの」
「いや……」
あまりに当然のように言われ、私はそれ以上の言葉が出なかった。
景色、か。
桜。
ふとそんなものを思い出した。
初めて母に手を引かれ走った。
たった3キロの市民マラソンだった。
おそろいのTシャツを着て。
途中なんか歩いていたし、頭上を舞う桜の花びらにずっと気を取られていた。
私は多分、マラソンだなんて思っていなかった。
ただ、母と手を繋いで桜の下を走った。
そんな光景だけを、覚えていた。
私は視線の先に目を凝らす。
桜も無ければ、折り返し地点もない。
川と、続く堤防と、その奥にかかるいくつもの橋だけ。
この河川敷は、あの3キロよりずっと長いのに。
なんでかな。
帰りはバスには乗らずに駅まで歩いた。
というか、走った。
さすがに汗だくでバスには乗れない。
ホームで電車を待つ間も、自分のにおいが気になって仕方なかった。
電車を待つ列からは少し離れた場所で、二人並んだ。
「汗だくで電車とか本当、ナイ」
「ごめんって。電車は連結のとこでやり過ごそ」
「当たり前じゃん。恥ずかしすぎる」
「汗ふきシート買ったんだから、怒るなよ」
今度は腕をグーで殴ったら「暴力反対」と言い返された。
そのうち飛鳥がぽつりと言う。
「今日どれくらい走ったかな」
私はスマートウォッチを確認した。
思ったより走っていた。
あっという間、だった気がした。
それに——楽しかった。……たぶん。
顔を上げると、飛鳥が私を見ていた。
「なに?」
飛鳥は「べつに」とそっぽを向いた。
朝よりも、襟足が跳ねている。
「飛鳥ってさ、」
また、目が合う。
「なんで陸上続けてるの?」
私の問いかけに、飛鳥は「なんで…」と右上にある電光掲示板を見た。
そして、笑う。
「なんでだろ」
ホームにアナウンスが響く。
誰かが階段を駆け上がる。
それを眺める飛鳥を、見つめた。
飛鳥は、ただ景色が見たくてここまで来た。
そのくせ続けてる理由も分かっていない。
私には、辞める理由なんていくらでもあったのに。
また、飛鳥の呑気な鼻歌が隣から聞こえてきた。
「……音痴」
私のランニングシューズの紐は、少しだけ、ほどけていた。



