しばらく公式の練習は無かった。
私は、放課後のほとんどをバイトに充てた。
「市川さーん、これ余ったから持って帰っていいよ」
店長が、私にいくつかのおにぎりを差し出した。
「え、いいんですか?」
「本当はダメだけど。内緒だよ。まだ数時間しか期限切れてないから食べれるでしょ」
「ありがとうございます」
ルールにゆるい店長は、ときたまこうして廃棄になるおにぎりやサンドイッチを持たせてくれる。
そのうちバレて大変なことにならないか心配しつつも、ありがたく頂戴した。
バイト先のコンビニから家まで、二十分。
走って帰ればその半分程度。
おにぎりの入った袋は、少し重たかった。
二十二時を回っている。
車も人もほとんどない通り。
ポツンとあるバス停のベンチに腰掛ける人影があった。
私は、見覚えのあるそのウェアに思わず声をかけた。
「大平《おおひら》さん?」
首にかけたタオルでこめかみを拭いながら、大平さんは振り向いた。
「え、自治会長の…」
大平さんは驚いたように立ち上がった。
「遥香です」
成人部門の代表——大平さんは「そうそう遥香ちゃん」と、にこやかに微笑んだ。
成人部門は私の出るジュニアのひとつ上の世代。
大抵、大学生とか実業団の人が走ることが多いが、大平さんは違った。
何してるんだろう、と顔に出ていたのか、大平さんは「この時間しか走れなくてさ」と言った。
大平さん、確かこの前のタイム記録会も、誰よりも先に帰っていったけど。
いつもこんな時間に走ってるんだ。
「社会人…ですもんね」
「そう。残業もあるし。娘もまだ小さいからね」
「おいくつですか?」
「娘?一歳二ヶ月かな。一番可愛い盛りだよ」
バイトで数時間働いただけの私ですら、今から走れなんて言われたら逃げ出すのに。
ましてや育児もあるなんて。
「大変、ですね」
私がそう言うと、少し間が空いた。
通り過ぎる車の光を目で追いながら、微妙な間をやり過ごす。
「大変とは感じたことないかも」
大平さんは笑った。
「逆に走らない日の方が、次の日しんどかったりする」
「えっ」
「俺にとってはこれがリフレッシュだからね」
「リフレッシュ……」
その言葉は、走るたび苦しくなっていた私にとって別次元だった。
私にとって走ることは競技でしかなかった。
今も——そう思っている。
走るたびに楽になるなんて、考えもしないことだった。
大平さんは、屈伸を始めた。
「まぁ、こんなのが代表やっちゃっていいのかって話だけど。人がいないっていうから、しょうがないよね」
また、車のヘッドライトが通り過ぎる。
手に持っていた袋を持ち替えると、指には赤く持ち手の跡がついていた。
「あの、大平さん。これよかったら……」
私はそのまま袋を差し出した。
「何? え、おにぎり??」
袋を覗いた大平さんは、また笑って私を見た。
「数時間期限切れなんですけど…気にならないのであれば」
「ハハッ。廃棄品か。俺も昔コンビニでバイトしてる時、やってたわ」
大平さんはそう言って、鮭おにぎりをひとつ手にとった。
「ありがとう遥香ちゃん」
「いえ…横領の共犯にしちゃってすみません」
私がそう言うと、大平さんはまた笑った。
走る人は、みんなよく笑う。
「走った後の飯は格別だから、楽しみだよ」
「まだ走るんですか?」
「うん。夜が明けて娘が起きれば、また一日が始まるからね」
「そう、ですか」
「じゃあ、また」
「さようなら」
大平さんは大きなストロークで、夜道を走り出した。
おにぎりの袋が少しだけ軽くなった。
こんな期限切れのおにぎりひとつが、いま、誰かの走るエネルギーになった。
どうして走るのか。
私にとって、ひとつしかないと思っていたその答えが、少しだけ輪郭を無くし始めている気がした。
袋を持ち直し、私は家へと向かった。
私は、放課後のほとんどをバイトに充てた。
「市川さーん、これ余ったから持って帰っていいよ」
店長が、私にいくつかのおにぎりを差し出した。
「え、いいんですか?」
「本当はダメだけど。内緒だよ。まだ数時間しか期限切れてないから食べれるでしょ」
「ありがとうございます」
ルールにゆるい店長は、ときたまこうして廃棄になるおにぎりやサンドイッチを持たせてくれる。
そのうちバレて大変なことにならないか心配しつつも、ありがたく頂戴した。
バイト先のコンビニから家まで、二十分。
走って帰ればその半分程度。
おにぎりの入った袋は、少し重たかった。
二十二時を回っている。
車も人もほとんどない通り。
ポツンとあるバス停のベンチに腰掛ける人影があった。
私は、見覚えのあるそのウェアに思わず声をかけた。
「大平《おおひら》さん?」
首にかけたタオルでこめかみを拭いながら、大平さんは振り向いた。
「え、自治会長の…」
大平さんは驚いたように立ち上がった。
「遥香です」
成人部門の代表——大平さんは「そうそう遥香ちゃん」と、にこやかに微笑んだ。
成人部門は私の出るジュニアのひとつ上の世代。
大抵、大学生とか実業団の人が走ることが多いが、大平さんは違った。
何してるんだろう、と顔に出ていたのか、大平さんは「この時間しか走れなくてさ」と言った。
大平さん、確かこの前のタイム記録会も、誰よりも先に帰っていったけど。
いつもこんな時間に走ってるんだ。
「社会人…ですもんね」
「そう。残業もあるし。娘もまだ小さいからね」
「おいくつですか?」
「娘?一歳二ヶ月かな。一番可愛い盛りだよ」
バイトで数時間働いただけの私ですら、今から走れなんて言われたら逃げ出すのに。
ましてや育児もあるなんて。
「大変、ですね」
私がそう言うと、少し間が空いた。
通り過ぎる車の光を目で追いながら、微妙な間をやり過ごす。
「大変とは感じたことないかも」
大平さんは笑った。
「逆に走らない日の方が、次の日しんどかったりする」
「えっ」
「俺にとってはこれがリフレッシュだからね」
「リフレッシュ……」
その言葉は、走るたび苦しくなっていた私にとって別次元だった。
私にとって走ることは競技でしかなかった。
今も——そう思っている。
走るたびに楽になるなんて、考えもしないことだった。
大平さんは、屈伸を始めた。
「まぁ、こんなのが代表やっちゃっていいのかって話だけど。人がいないっていうから、しょうがないよね」
また、車のヘッドライトが通り過ぎる。
手に持っていた袋を持ち替えると、指には赤く持ち手の跡がついていた。
「あの、大平さん。これよかったら……」
私はそのまま袋を差し出した。
「何? え、おにぎり??」
袋を覗いた大平さんは、また笑って私を見た。
「数時間期限切れなんですけど…気にならないのであれば」
「ハハッ。廃棄品か。俺も昔コンビニでバイトしてる時、やってたわ」
大平さんはそう言って、鮭おにぎりをひとつ手にとった。
「ありがとう遥香ちゃん」
「いえ…横領の共犯にしちゃってすみません」
私がそう言うと、大平さんはまた笑った。
走る人は、みんなよく笑う。
「走った後の飯は格別だから、楽しみだよ」
「まだ走るんですか?」
「うん。夜が明けて娘が起きれば、また一日が始まるからね」
「そう、ですか」
「じゃあ、また」
「さようなら」
大平さんは大きなストロークで、夜道を走り出した。
おにぎりの袋が少しだけ軽くなった。
こんな期限切れのおにぎりひとつが、いま、誰かの走るエネルギーになった。
どうして走るのか。
私にとって、ひとつしかないと思っていたその答えが、少しだけ輪郭を無くし始めている気がした。
袋を持ち直し、私は家へと向かった。



