あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「さっき、何か言いかけていたな」

 奈津は、はっと紫鬼を見る。

 「……実は、朝から少し気になっていることがあって」

 奈津は、朝から目にした異変を紫鬼へ話した。
 綾乃に妙に親しげな鬼たち。
 夜刀や九重まで様子が変わったこと。
 紫鬼は黙ったまま聞いていた。

 「もうひとつ、気になることがあるんです」

 「何だ」

 「朝から、甘い香りがするんです」

 紫鬼がわずかに眉を寄せた。

 「香り?」

 「はい。紫鬼様は……何か感じませんか?」

 紫鬼はしばらく辺りへ意識を向けたあと、首を横に振った。

 「何も感じない」

 「……コマも、そう言っていました」

 奈津は膝の上で指を握る。

 自分にだけ分かる甘い香り。
 その香りが漂い始めてから、鬼たちの様子も変わった。
 偶然とは思えなかった。

 紫鬼も何かを考えるように目を細める。

 「その香りを、また感じたら俺に言え」

 「……分かりました」

 紫鬼に話したことで、胸のつかえが少しだけ軽くなった。

 紫鬼は再び書類へ目を落とす。
 奈津も本を開き直した。

 けれど、甘い香りと今日目にした光景が、何度も頭をよぎった。

 ◇

 夜も更けた頃。綾乃は客室で、深紅の香玉を見つめていた。

 鬼たちには、確かに効いている。
 夜刀や九重にさえ、変化は現れ始めていた。
 それなのに、紫鬼だけは何ひとつ変わらない。

 綾乃は香玉を握りしめる。

 ――力の強い妖ほど、馴染むまでに時間がかかります。
 あの男の言葉が脳裏に蘇った。

 「……まだ足りないのね」

 ならば、もっと。
 綾乃は昨日よりも多くの霊力を香玉へ注ぎ込む。
 深紅の玉が、強く明滅した。

 「紫鬼様に届くまで……もっと」

 甘い香りが、静かに屋敷へ広がっていく。