あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 穏やかな朝の光が差し込む堂目道家の屋敷には、いつもと変わらない静けさが満ちていた。
 ――少なくとも、奈津にはそう見えていた。

 綾乃が滞在すると知ってから、奈津はどこか身構えていた。
 また何かされるのではないかと、警戒していたのだ。
 けれど、拍子抜けするほど綾乃は何もしてこなかった。
 奈津に近づこうとすることすらなく、昨日から穏やかに過ごしている。

 「今日はいいお天気ですね、奈津様!」

 奈津はコマと並び、廊下を歩いていた。

 「ええ。昨日より暖かくなりそうね」

 そんな他愛のない話をしていた時、不意に奈津の足が止まる。
 ほのかに、香りがした。
 花とも、焚いた香とも違う、不思議な匂い。

 「……何だか、甘い香りがしない?」

 「香り?」

 コマが鼻をひくひくと動かす。

 「ぼくには何も匂わないですよ?」

 「そっか……」

 奈津は辺りを見回した。
 確かに香っている気がするのに、どこから漂ってくるのかは分からない。

 「奈津様、行きましょう!」

 気のせいだろうか。
 そう思い、再び歩き出したところで、廊下の先から楽しげな声が聞こえてきた。

 「綾乃様、おはようございます」

 「昨日は大丈夫でしたか?」

 数人の鬼たちに囲まれていたのは、綾乃だった。

 「ええ。もうすっかり平気ですわ。ご心配ありがとうございます」

 「それはよかった」

 「何か必要なものがあれば、いつでもお申しつけください」

 綾乃がにこりと笑うと、鬼たちも親しげに笑みを返す。
 奈津はわずかに首を傾げた。

 視察に訪れた一行にも、鬼たちは礼を欠くことなく接している。
 けれど、あくまで客人として節度を保っていた。
 それが今日は、綾乃にだけ随分と親しげに見える。
 昨日、紫鬼の穢れに触れて倒れたことを気遣っているのだろうかと、そう思った。

 しかし違和感は、それきりではなかった。
 屋敷のあちらこちらで、奈津は同じような光景を目にした。

 綾乃が歩けば、鬼たちが声をかける。
 何かを探していれば、誰かがすぐに手を貸す。
 まるで、以前から親しくしていたかのように。

 一人で廊下を歩いていた時もそうだった。
 向こうから、見知った鬼がやってくる。

 「あの――」

 奈津が声をかけようとした、その時。

 「あ、綾乃様」

 鬼の視線が、奈津の後ろへ向いた。
 振り返れば、綾乃が歩いてくる。

 「どちらへ?」

 「少しお庭を見てみようかと思いまして」

 「でしたら、ご案内いたしますよ」

 「まあ。ありがとうございます」

 奈津に声をかけることもなく、鬼は綾乃の隣へ並んだ。
 二人が去っていくのを、奈津はしばらく見送った。
 朝から、何度目だろう。

 (……やっぱり、何かおかしい)

 その時。また、鼻先を甘い香りが掠めた。

 「……この香り」

 朝よりも、少し濃いような。
 奈津の胸に、言いようのないざわつきが広がった。