あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~


 「ひっ……!」

 綾乃は反射的に手を離した。
 力の抜けた足がもつれ、その場にへたり込む。

 「綾乃殿!」

 祓い師たちが慌てて駆け寄った。

 「な……何なの……?」

 震える声が漏れる。
 こんな穢れは、知らない。
 あと少し触れていれば、こちらまで引きずり込まれていたような――。

 「紫鬼様の穢れは、通常の浄化では取り除けません」

 九重が静かに告げた。

 「通常の……?」

 綾乃が顔を上げる。
 では、どうやって――。

 「奈津」

 紫鬼が、ただ一言その名を呼んだ。
 奈津はすぐに紫鬼のもとへ歩み寄った。

 「はい」

 紫鬼が、何のためらいもなく腕を差し出す。

 「頼む」

 「……はい」

 そのやり取りに、綾乃は息を呑んだ。
 奈津が紫鬼の手に、そっと触れる。

 次の瞬間、柔らかな白い光が二人を包み込んだ。

 「……え?」

 先ほどまで、自分の力をまるで受けつけなかった黒い穢れが、ゆっくりと、確かにほどけていく。
 綾乃は目を見開いた。

 (嘘……)

 奈津が。あの奈津が、浄化している。

 幼い頃、何度調べても力の兆しすらなかったはずの姉が。
 それも――。
 自分には浄化することのできなかった、紫鬼の穢れを。

 「さすが癒し子様だ」

 近くにいた鬼から、感嘆の声が上がる。
 癒し子。また、その言葉。

 「……癒し子……?」

 思わず声に出すと、九重が綾乃へ視線を向けた。

 「妖の間で、特別な浄化の力を持つ者をそう呼ぶことがございます」

 「特別な、浄化の力?」

 綾乃の視線が、奈津へ吸い寄せられた。

 「今日は、このくらいにしておきますね」

 「ああ」

 「少しは楽になりましたか?」

 「……悪くない」

 綾乃は、呆然と奈津を見つめた。
 奈津が、浄化の力を持っている。

 そんなの、ありえない。

 客室へ戻ってからも、綾乃の頭から昼間の光景が離れなかった。
 綾乃は親指の爪を噛む。

 「……たまたまに決まってるわ」

 がり、と爪先に歯を立てる。
 自分の浄化の力が、奈津に劣るはずがない。

 癒し子。妖の間で、特別な浄化の力を持つ者。
 九重はそう言っていた。

 (お姉様が、特別……?)

 そんなこと、あっていいはずがない。
 特別なのは、ずっと自分だった。
 奈津は、ずっと自分より下だったはずなのに。

 ふと、遠い記憶の中から母の声が蘇る。
 『あの女さえいなければ、私はもっと早く正臣様の妻になれていたのよ』
 幼い頃から、何度聞かされてきただろう。
 母がそう呼ぶのは、いつだって奈津の母だった。

 『綾乃。あなたの方が、あの女の娘なんかよりずっと愛される価値があるの』
 ――私の方が、愛される価値がある。
 その言葉は、いつしか綾乃の中で疑うことのない真実になっていた。

 だから、奈津が何かを持っていると奪いたくなった。
 奈津が褒められれば、それ以上に褒められたかった。
 誰かに大切にされれば、その相手に自分を選ばせたくなった。
 奈津が傷つくたび、自分の方が上なのだと確かめられる気がした。

 (今度は、私が浄化してみせる)

 そう言い聞かせても、胸のざわつきは消えなかった。
 そして、ふと別の考えが浮かぶ。

 (紫鬼様がお姉様を花嫁に選んだのも、癒し子だから?)

 だとしたら――。
 奈津自身が選ばれたわけではない。
 紫鬼が必要としているのは、その力なのかもしれない。
 そう考えた途端、綾乃の呼吸がわずかに落ち着いた。

 綾乃の視線が、机の上の黒塗りの箱へ向く。
 ゆっくりと蓋を開ける。
 中に収められた深紅の香玉が、灯りを受けて鈍く光った。

 ――妖の心を惹きつける呪具にございます。

 綾乃は香玉を手に取った。
 奈津にどんな力があろうと、それとこれとは別だ。
 紫鬼の心まで、奈津のものと決まったわけではない。

 指先から霊力を流し込む。
 深紅の香玉がほのかに明滅し、甘い香りが静かに部屋へ広がっていった。