あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「……どうして」

 ようやく、それだけが零れた。
 宗一が綾乃から手を離し、立ち上がる。

 「奈津、これは――」

 「……綾乃のことが、お好きなんですね」

 声にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
 悲しくないはずがない。
 ようやく自分にも、誰かに選んでもらえる日が来たのだと思っていたのだから。
 けれど同時に、心のどこかで――やっぱり、と呟いている自分もいた。

 綾乃は昔から、奈津の持つものを何でも欲しがった。着物も、簪も、大切にしていたものも。
 そして最後には、いつだって綾乃のものになった。今回も、ただそれが宗一だっただけなのかもしれない。

 「でしたら……私は身を引きます」

 宗一が眉を寄せる。

 「奈津?」

 「綾乃のことがお好きなら、私と結婚する必要はありません」

 奈津は震えそうになる声を押さえた。

 「婚約は、なかったことにしてください」

 また、奪われた。
 けれど――誰かの心まで、無理に自分のものにすることはできない。

 そして奈津は知っていた。
 綾乃が欲しいと望んだものが、再び自分の手に戻ってくることなどないのだと。
 だから、身を引くしかなかった。

 その瞬間。宗一の表情から、狼狽が消えた。

 「……は?」

 それまで一度も聞いたことのない、低い声だった。
 奈津は思わず肩を震わせる。

 「今、なんて言った?」

 「こ、婚約を……解消してくださいと」

 「勝手なことを言うな」

 「……っ」

 宗一がこちらへ歩み寄る。
 その顔は、奈津が今まで知っていた優しい宗一とは、まるで別人のようだった。

 「僕がお前のために、いくら結納金を払ったと思ってる」

 奈津は目を見開いた。

 「……結納金?」

 「そうだよ」

 宗一の口元が歪む。

 「出来損ないのお前なんかのために、久世家がどれだけ無理をしたと思ってるんだ」

 ――出来損ない。
 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 宗一だけは。この人だけは、自分をそんな風に見ていないと思っていたのに。

 「……だったら、どうして私に結婚を……?」

 宗一は、苛立ったように息を吐いた。

 「綾乃を僕がもらえるわけがないだろ」

 「……え?」

 「今の久世家じゃ、綾乃ほどの娘を嫁にもらえる格じゃない」
 「だから、お前にしたんだ」

 奈津の顔から、血の気が引いた。

 「お前なら九条家も手放す。お前を通して九条家と縁を結べれば、それで十分だった」

 「そんな……」

 「まさか、自分自身にあれだけの結納金を払う価値があるとでも思ってたのか?」

 宗一が吐き捨てる。
 かつて向けられた優しい言葉が、脳裏を掠める。
  全部、この家と縁を繋ぐためだけのものだった?

 「……分かりました」

 奈津は震える指を握りしめる。

 「それなら、なおさら……婚約はなかったことにしてください」

 宗一のこめかみが、ぴくりと引きつる。

 「……何?」

 奈津は震える声で、それでもはっきりと言った。

 「結納金のことは……父に返してもらいます」

 「勝手なことを言うな」

 低く響いた声に、奈津の身体が強張る。
 宗一が一歩近づく。
 その目を見た瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
 今まで見たことのない顔だった。

 奈津は咄嗟に踵を返した。

 「待て」

 腕を強く掴まれる。

 「離してください……!」

 必死に振りほどこうとするが、びくともしない。

 「お前は黙って僕の妻になればいいんだ」

 「嫌です……!」

 こんなにはっきり誰かに逆らったのは、初めてだった。

 「私は、あなたとは結婚しません!」

 宗一の顔が歪んだ。

 「出来損ないが、僕に逆らうな!」

 強く突き飛ばされ、奈津の身体が畳へ倒れ込む。

 「きゃっ……!」

 咄嗟に身を起こそうとした。
 けれど、その前に。
 腹部へ、鈍い衝撃が走った。

 「――っ!」

 息が止まった。
 下腹部の奥から、焼けるような痛みが広がる。

 「……ぁ……」

 奈津は腹を押さえ、その場に蹲った。
 息を吸おうとしても、うまく吸えない。

 「宗一、様……」

 震えながら顔を上げる。
 宗一は片足を下ろし、荒い息を吐きながら、冷たい目で奈津を見下ろしていた。

 「誰のおかげで、お前みたいな女に嫁ぎ先ができたと思ってる」

 その言葉に、胸まで抉られる。

 ――この人は。
 自分を救ってくれる人などではなかった。
 最初から、一度だって。

 「ふふ……」

 小さな笑い声が聞こえた。
 奈津はゆっくりと視線を向ける。
 綾乃は止めようとも、助けを呼ぼうともせず、ただ楽しそうに奈津を見下ろしていた。

 昔から何度も見てきた顔。
 奈津が大切なものを奪われるたび、綾乃が浮かべていた笑みだった。

 「……どう、して……」

 掠れた声が零れる。
 綾乃は答えない。ただ、その笑みは消えることなく、奈津を見ろしていた。

 腹の奥がずきずきと痛む。雨音が、どんどん遠ざかっていく。
 視界の端から、ゆっくりと闇が広がった。

 最後に見えたのは――寄り添うように並び、自分を見下ろす宗一と綾乃の姿。
 そして奈津の意識は、闇へと沈んだ。