あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 街へ足を踏み入れてほどなく、周囲の空気が目に見えて変わり始めた。
 最初に紫鬼の姿に気づいた者が息を呑み、その視線を追った者が足を止める。
 やがて気配は波紋のように広がり、あれほど賑わっていた通りから、少しずつざわめきが消えていった。
 人々が、示し合わせたわけでもないのに自然と道を空けていく。

 白銀の髪に、深紫の瞳。
 人の姿を取っていてなお隠しきれない、圧倒的な妖気。
 鬼の中でも最古にして最上位の血を継ぎ、数多の妖からさえ畏れられる存在――それが、堂目道家当主・紫鬼だった。

 「……紫鬼様……?」

 誰かが、掠れた声でその名を口にした。
 それを合図にしたかのように、人々は次々と頭を下げ、ある者は恐れ多そうに視線を伏せ、またある者は遠巻きに立ち尽くす。
 けれど紫鬼本人は、そんな周囲の反応など意にも介さず、いつもと変わらぬ足取りで歩いていた。
 そして当然、その隣を歩く奈津へも、次々と視線が集まっていく。

 (……ものすごく、見られてる……)

 堂目道家当主が、人間の娘を連れて歩いている。
 しかも紫鬼は、奈津を自らのすぐ隣に置いている。

 驚きと好奇の入り混じった視線が、一斉に注がれていた。
 奈津はなるべく平静を装おうと背筋を伸ばす。
 けれど意識すればするほど身体が強張り、歩き方までぎこちなくなっていく。

 「堂々としていろ」

 「……そ、そう言われましても」

 奈津はどうにか前を向いたものの、緊張はなかなか解けない。
 そんな奈津を、紫鬼が一瞥する。

 「俺の隣を歩いているのは、お前だ」

 それだけ告げると、紫鬼は何事もなかったように前を向いた。
 奈津はしばらく目を瞬いたあと、ほんの少しだけ顔を上げる。

 相変わらず視線は集まっている。
 それでも先ほどよりは、紫鬼の隣を歩く足取りが軽くなった気がした。

 やがて、目的のカフェーへ辿り着く。

 店内へ入り、案内された席につくと、奈津は物珍しそうに周囲を見回した。
 隣の卓には、色鮮やかな洋菓子や、硝子の器に盛られた甘味が並んでいる。

 奈津も店員に勧められたものを頼み、しばらく待つ。
 やがて、注文した品が運ばれてきた。

 「……わあ」

 奈津の目が、ぱっと輝く。
 奈津の前には、赤い苺を飾った洋菓子と紅茶。
 紫鬼の前には、湯気の立つ珈琲が置かれる。

 「すごく綺麗……」

 嬉しそうに皿を見つめる奈津を、紫鬼は黙って見ていた。
 その視線に気づき、奈津が顔を上げる。

 「……紫鬼様?」

 「いや」

 紫鬼はカップを置いた。

 「連れてきた甲斐があったな」

 「……!」

 思いがけない言葉に、奈津の頬がほんのりと熱を持つ。
 誤魔化すように洋菓子をひと口食べると、今度はその味に目を見開いた。

 「……おいしい」

 その様子に、紫鬼の口元が僅かに緩む。

 「こんなところに来られるなんて、思ってもみませんでした」

 「大げさだな」

 奈津は紅茶のカップへ視線を落とした。

 「こういう場所は……ずっと、私には縁のないところだと思っていましたから」

 紫鬼はしばらく奈津を見つめていたが、やがて静かに言った。

 「なら、また来ればいい」

 「……え?」

 「一度きりにする必要はないだろう」

 奈津は目を瞬く。
 そんなふうに考えたことは、一度もなかった。

 行きたい場所があれば、また行けばいい。
 欲しいと思ったものを、欲しいと言ってもいい。
 それは奈津にとって、まだひどく不慣れなことだった。

 けれど――。

 「……はい」

 奈津は、嬉しそうに微笑んだ。