あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 昼を少し過ぎた頃、縁側には穏やかな陽が差していた。
 奈津がぼんやりと庭へ目を向けていると、不意に名前を呼ばれる。

 「奈津」

 振り返ると、紫鬼がこちらを見ていた。

 「何か欲しいものはないか」

 「……欲しいもの、ですか?」

 あまりに突然の問いに、奈津は目を瞬いた。
 紫鬼は腕を組んだまま、淡々と続ける。

 「お前には、してもらってばかりだからな」

 「そんな。私は好きでしているだけですし……」

 「それでもだ」

 言い切られ、奈津は困ったように視線を落とした。
 欲しいもの。
 そう言われても、すぐには何も思い浮かばない。

 「あ……」

 ひとつだけ、胸に浮かんだものがあった。
 だが、奈津はすぐに口を閉ざす。

 「……いえ。何でもありません」

 紫鬼が奈津を見つめる。

 「言ってみろ」

 奈津は少し迷ってから、おずおずと口を開いた。

 「……カフェーに、行ってみたくて」

 「カフェー?」

 「はい。昔、街へ買い出しに出た時に、何度か前を通ったことがあるんです」

 硝子越しに見えた、華やかな店内。
 綺麗な洋装の女性たちが、色とりどりの菓子を前に楽しそうに笑っていた。
 自分には縁のない場所だと思っていた。

 「一度くらい、入ってみたいなって……」

 言葉にしてみると、急に恥ずかしくなる。

 「でも、本当にそれだけなので――」

 「なら行くぞ」

 「……え?」

 奈津が顔を上げる。

 「行ってみたいんだろう」

 「それは、そうですけど……」

 「決まりだ」

 あまりにもあっさりと言われ、奈津はしばらく瞬きを繰り返した。

 ◇

 外出の支度を整えてもらう間、奈津は何度も鏡を気にしていた。

 いつもより少しだけ華やかな着物。
 女中が髪を整えてくれている途中、奈津はふと桐箱へ目を向ける。
 中に収められているのは、母の形見の簪だった。

 白い螺鈿で桜の花があしらわれた、控えめながら美しい簪。
 奈津はしばらく見つめてから、そっと手を伸ばした。

 「……今日は、これをつけてもらってもいいですか?」

 「もちろんでございます」

 女中が丁寧に簪を挿してくれる。
 黒髪に咲いた白い桜を鏡越しに見つめていると、奈津の口元にも自然と笑みが浮かんだ。

 ◇

 支度を終えた奈津が廊下へ出ると、ちょうど紫鬼がこちらへ歩いてくるところだった。
 奈津の姿を認めた深紫の瞳が、ふと髪元で止まる。

 「……それは?」

 「あ……母の形見なんです」

 奈津は簪へ指先を添えた。

 「ずっとしまっていたんですけど……今日は、せっかくなので」

 紫鬼はしばらく簪を見つめたあと、奈津自身へ視線を戻す。

 「……似合っている」

 「……!」

 思いがけない言葉に、奈津は目を見開いた。

 「ありがとうございます……」

 嬉しさと気恥ずかしさが入り混じり、頬が熱を帯びる。

 「行くぞ」

 「……はい」

 紫鬼が歩き出し、奈津もその隣へ並ぶ。
 二人はそのまま、堂目道家の屋敷を後にした。