あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「だが……なぜ、お前が我々にこんなものを渡す」

 正臣が、男へ鋭い視線を向ける。

 「何が目的だ」

 男は答えず、立ち上がった。それを追って、正臣も立ち上がる。

 「待て。お前は何者だ」

 だが男は答えない。

 「この品を使うかどうかも、あなた方次第。ただし——」

 障子へ手をかけ、一度男が振り返った。

 「堂目道家ほどの鬼を惹きつけたいのであれば、焦らぬことです」

 その視線が、一瞬だけ綾乃へ向けられる。

 「少しずつ香を馴染ませること。力を強めたい時には、ご自身の霊力を注いでください。
 注ぐ力が多いほど、香の作用も強くなります」

 綾乃は香玉を見つめた。

 「それでも足りなければ?」

 男の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。

 「その時は――ほかの方のお力を借りればよろしい」

 「霊力を? そんなことができますの?」

 「通常はできません。ですが、この香玉を介せば可能です」

 男は意味ありげに目を細める。

 「一度流し込まれた霊力を、この香玉は覚えますから」

 「覚える……?」

 「ええ。いずれ、お分かりになりますよ」

 綾乃が問い返すより早く、男は障子の向こうへ姿を消した。

 「待て!」

 正臣が追う。
 しかし、廊下にはすでに誰の姿もなかった。

 左右を見渡しても、人影ひとつない。

 「……何者なんだ、あの男は」

 明美が不安げに香玉を見る。

 「やっぱり、使わない方が……」

 綾乃が香玉を手に取った。
 ほのかに甘い香りが漂う。

 「せっかくですもの。試してみればいいではありませんか」

 「綾乃」

 「もし本当に効くのなら、九条家にとっても悪い話ではないでしょう?」

 正臣は何か言い返そうとして、結局そのまま口を閉ざした。
 このままなら、奈津が堂目道家へ嫁いだところで、九条家には何の利益もない。
 だが、この呪具が本物なら。

 「……使ってみる価値はあるか」

 正臣が呟いた。
 明美も、しばらく迷ってから頷く。

 「そうね。綾乃なら、きっとうまくやれるわ」

 明美の言葉に、綾乃は微笑んだ。

 「任せてくださいな」

 九条家の後ろ盾など、今の綾乃にはどうでもよかった。
 欲しいものは、ただひとつ。

 ――紫鬼。
 あの方が自分を選べば、奈津はもう特別ではなくなる。

 綾乃は掌の中の香玉を、そっと握り締めた。

 (待っていてね、お姉様)

 唇に、甘い笑みが浮かぶ。

 (今度は――紫鬼様をいただくわ)