あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 男の手が、ゆっくりと懐へ入る。
 正臣は警戒を解かぬまま、その動きを目で追った。
 取り出されたのは、小さな黒塗りの箱だった。

 「……何だ、それは」

 「あなた方のお望みを叶えるものです」

 男が蓋を開ける。中に収められていたのは、小さな香玉だった。
 艶のある深紅の玉に、細かな金の文様が刻まれている。

 「妖の心を惹きつける呪具にございます」

 「呪具?」

 正臣が眉をひそめる。

 呪具とは、術を込められた道具の総称だ。
 祓い師の家々でも使われることはあるが、その性質はさまざま。
 扱いを誤れば、術者自身に災いをもたらすものも少なくない。

 「この香玉には、妖の警戒心を和らげ、持ち主へ好意を抱かせる力がございます」

 「好意を?」

 明美が身を乗り出す。

 「ええ。香を吸い続けるうちに、持ち主へ親しみを覚え、心を寄せるようになる。
 作用が強まれば、その好意は他の感情にも影響を及ぼします」

 「他の感情?」

 「心がひとつへ強く傾けば、それ以外の者を疎ましく感じることもある――ということです」

 綾乃の視線が、香玉へ落ちた。
 深紅の表面が、灯りを受けて鈍く光っている。

 「堂目道家ほどの鬼にまで、本当に通用するのか?」

 正臣が疑わしげに尋ねた。
 あの一族は、並の妖とは違う。
 特に当主である紫鬼は、人間の祓い師が束になったところで敵う相手ではない。

 「無論、すぐにとは参りません」

 男は香玉を指先でつまみ上げた。

 「堂目道家ほど格の高い鬼ともなれば、数日かけて香を馴染ませる必要があります」

 「数日……」

 綾乃の瞳が揺れた。
 ちょうど、自分が堂目道家へ滞在する期間と重なる。

 「ですから、今回のご滞在は絶好の機会かと」

 まるで綾乃の考えを読んだかのように、男が言った。
 正臣が香玉を見つめる。

 「これを使えば……堂目道家はこちらの願いを聞くようになるのか?」

 「人の心と同じです」

 男は穏やかに答えた。

 「好ましく思う相手の願いなら、聞き入れたくなるものではございませんか?」

 正臣の表情から、少しずつ警戒が消えていく。
 代わりに浮かび始めたのは、欲だった。

 「それなら、ちょうどいいじゃない」

 明美が綾乃へ目を向ける。

 「奈津がどうやって紫鬼様に気に入られたのかは知らないけれど……あなたの方が、あの子よりずっと優れているもの」

 明美は嬉しそうに続けた。

 「堂目道家の方々にも、きっとそれが分かるわ」

 綾乃の脳裏に、先日の会合が蘇る。

 ――堂目道家当主に選ばれるほどとは。
 ――九条家には、とんでもない娘御がいたものですな。

 誰もが奈津のことばかり口にしていた。

 「本当に、どんな妖にも効くのですか?」

 綾乃が男を見る。

 「力の差によって効き目に違いはございますが、妖である限り作用はいたします」

 「……そう」

 綾乃の唇が、かすかに弧を描いた。