あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 婚約が決まると、正臣と明美は俄然、話に乗り気になった。
 婚姻の時期や両家の今後について、宗一を交えて話が進んでいく。
 綾乃もその輪に加わり、楽しそうに宗一へ話しかけていた。

 奈津は少し離れたところで、その光景を見つめていた。
 ついさっきまで、自分には縁のないものだと思っていた未来。
 それが急に手の届くところまで近づいたようで、まだどこか夢を見ているようだった。

 やがて正臣と明美は、以前から決まっていた用事のため屋敷を出た。
 今夜はそのまま先方に泊まり、戻るのは明日になるという。

 宗一はもう少し話をしてから帰ることになったが、日が暮れる頃から空模様が急に崩れ始めた。
 ぽつぽつと降り始めた雨は、ほどなくして激しい雨音へと変わる。
 窓を叩く雨粒に、宗一が外を見やった。

 「……参ったな。この降り方じゃ、川もかなり増水しているだろう。帰り道の橋が渡れなくなるかもしれない」
 「少し待って、弱まるようなら帰るよ」

 すると、綾乃が口を挟んだ。

 「だったら、泊まっていけばいいじゃない」

 「え?」

 「客間だって空いているもの。もうお姉様と婚約されたのだから、問題ないでしょう?」

 奈津は窓の外へ目を向けた。
 雨脚は、ますます強くなっている。

 「……私も、今夜は泊まっていった方がいいと思います」

 宗一は少し迷った末、頷いた。

 「それなら、お言葉に甘えようかな」

 「ええ。そうなさって」

 綾乃は、嬉しそうに微笑んだ。
 その笑顔に、奈津はほんの少しだけ引っかかりを覚えた。
 けれど——さすがの彩乃でも、人の婚約を邪魔したりはしないだろう。
 何せ彩乃が求めるのは、それこそ紫鬼のような、高位の妖なのだから。

 そう思い、それ以上深く考えることをやめた。
 あの時の奈津は、ただ――今度こそ幸せになれると信じたかったのだ。

 ◇

 夜も更けた頃。
 雨はまだ、屋根を激しく叩いていた。

 夜中に目が覚め、厠に行った帰り。
 奈津は冷えた指先を擦りながら、自分の寝所へ向かっていた。

 その時。
 微かな笑い声が聞こえたような気がして、足を止める。

 「……?」

 雨音に紛れて、もう一度。
 女の、押し殺したような笑い声。

 聞き覚えがあった。

 ――綾乃?

 こんな夜更けに、どうして。
 奈津は声のした方へ視線を向けた。

 廊下の先。
 客間とは反対側にある、綾乃の部屋の方だった。
 まさかと思いながらも、奈津はそっと足を進める。
 部屋の前まで来ると、襖がわずかに開いていた。

 「宗一様ったら……」

 甘えるような綾乃の声。
 奈津は息を殺し、隙間へ視線を向けた。

 そして――息を呑んだ。
 部屋の中で、宗一が綾乃の腰を抱き寄せていた。
 綾乃の白い腕が、宗一の首へ絡む。

 「昼間、お姉様に結婚を申し込んだばかりなのに」

 「……仕方ないだろ」

 宗一はそう言いながらも、綾乃を離そうとはしなかった。

 「ふふ。じゃあ、やめる?」

 「それはできない」

 「どうして?」

 綾乃が試すように問う。
 宗一は一瞬黙り込んだ。

 「……分かってるだろ」

 その言葉の意味を、奈津が考えるより早く。
 綾乃が背伸びをして、宗一の唇へ自分の唇を重ねた。

 「……っ」

 奈津の喉から、掠れた息が漏れる。
 その小さな音に、宗一が振り向いた。

 「奈津……?」

 綾乃もこちらを見る。
 一瞬だけ目を見開いたあと――その口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 「あら、お姉様」

 まるで、見つかることなど最初から分かっていたかのような顔だった。
 ほんの数刻前、自分に向かって結婚してほしいと言った人が。
 今は、妹を抱いている。