あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 最初はどうにも落ち着かず、何度も周囲へ視線を彷徨わせていた。
 けれど、紫鬼は黙々と仕事を続けている。
 やがて奈津も、近くに置かれていた書物を一冊手に取った。

 紙をめくる音。筆が紙の上を滑る音。庭の木々が風に揺れる気配。
 穏やかな時間が流れていく。
 不思議と、居心地は悪くなかった。

 どれほど経っただろう。
 紫鬼もひと通り仕事を終えたのか、残った書状を手に、奈津の近くへ腰を下ろしていた。
 奈津も特に気に留めず、再び書物へ目を落とす。

 その時。こつん、と肩に重みがかかった。

 「……え?」

 奈津の身体が強張る。
 さらりとした白銀の髪が、肩へ流れ落ちていた。

 「紫鬼様……?」

 返事がない。
 恐る恐る横を見ると、長い睫毛が伏せられている。

 「……眠ってる?」

 紫鬼は奈津の肩に頭を預けたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。
 いつも鋭い深紫の瞳は閉じられ、眉間にも皺がない。
 普段とはまるで違う、穏やかな寝顔だった。

 (どうしよう……)

 起こした方がいいのだろうか。
 けれど、あまりにも安らかに眠っている。
 奈津は動くこともできず、そのまま肩を貸していた。

 ◇

 「紫鬼様ー!」

 しばらくして、廊下からコマの声が聞こえた。

 「九重様が――」

 勢いよく障子が開く。
 その後ろには夜刀もいた。

 「紫鬼様、ちょっと――」

 二人が同時に動きを止める。
 奈津は慌てて口元へ人差し指を立てた。

 「しーっ……」

 コマの琥珀色の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
 夜刀も、信じられないものを見るように固まっていた。
 やがて夜刀が声を潜める。

 「……寝てんのか?」

 奈津は小さく頷いた。

 「はい。少し前から……」

 「……嘘だろ」

 「え?」

 あまりの反応に、奈津は首を傾げる。

 「そんなに珍しいの?」

 コマと夜刀が顔を見合わせた。

 「珍しいどころじゃないです……」

 コマが小声で答える。

 「紫鬼様、ずっとよく眠れていないんです」

 「……え?」

 「穢れのせいで身体が痛んだり、苦しくなったりして……眠っても、すぐに目を覚ましてしまうことが多くて」

 奈津は肩に頭を預ける紫鬼を見る。
 穏やかな寝息。苦しげな様子はない。

 「それに」

 夜刀が続ける。

 「紫鬼様が誰かの前で、こんな無防備に寝るなんて見たことねぇ」

 奈津は思わず、肩に寄りかかる紫鬼へ目を落とした。

 「俺らの前でもな」

 奈津の胸が、どくりと鳴った。

 「どうして……」

 思わず声が零れる。
 するとコマが、嬉しそうに笑った。

 「奈津様がいるからじゃないですか?」

 「え……?」

 「きっと、安心するんです」

 「私が……?」

 奈津はもう一度、紫鬼を見る。

 白銀の髪が、自分の肩へ触れている。
 規則正しい寝息が、すぐそばから聞こえる。

 自分のそばだから、安心して眠れている。
 本当に、そんなことがあるのだろうか。

 そう意識した途端、肩に感じる重みも、すぐそばにある横顔も、急に気になり始めた。
 奈津の胸が、また妙に騒がしくなる。
 昨日、初めて自分の名を呼ばれた時のように。

 けれど、その胸の高鳴りが何を意味するのか――奈津にはまだ、分からなかった。