あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「失礼いたします」

 聞き慣れた声とともに、障子が開いた。
 入ってきたのは、いつも朝の支度を手伝ってくれる女中だった。
 奈津は身体を起こすと、いつものように頭を下げる。

 「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 これまでは、返ってくるのは短い返事だけだった。
 視線が重なっても、すぐに逸らされる。
 紫鬼に命じられたから世話をしている――そんな距離を、奈津も感じていた。

 けれど今日は、女中は奈津の顔をきちんと見てから、丁寧に頭を下げた。

 「……おはようございます、癒し子様」

 「……!」

 奈津は目を瞬いた。
 女中は手にしていた衣を広げながら、これまでより柔らかな声で尋ねる。

 「お身体の具合は、もうよろしいのですか?」

 「はい。もう、ほとんど大丈夫です」

 地下水路で負った傷も、数日休んだことで随分とよくなっていた。
 まだところどころに鈍い痛みは残っているものの、日常生活に支障があるほどではない。

 「そうですか」

 女中の表情が和らぐ。

 「それは、何よりでございます」

 「……ありがとうございます」

 ほんの短いやり取りだった。
 それでも奈津の胸には、温かなものが広がった。

 支度を終えて部屋を出てからも、すれ違う鬼たちから「癒し子様」と声をかけられた。
 中には、身体を気遣ってくれる者までいる。

 以前なら、鬼たちは人間である奈津を警戒し、遠巻きに見ていることが多かった。

 けれど今は違う。
 向けられる視線から、以前のような棘が消えている。
 まだどこかぎこちなさは残っているものの、それでも奈津を気遣ってくれていることは伝わった。

 (……少しだけ、受け入れてもらえたのかな)

 そう思うと、胸の奥がくすぐったい。
 ここへ来たばかりの頃には、考えもしなかったことだった。

 「おい」

 不意に声をかけられ、奈津が振り返る。
 廊下の向こうから、夜刀が歩いてきた。

 「夜刀様。おはようございます」

 「ああ」

 夜刀は奈津をひと目見ると、眉を寄せる。

 「もう出歩いてんのか」

 「はい。身体もだいぶよくなりましたから」

 「治った気になって動き回んなよ」

 ぶっきらぼうな言い方だったが、気遣ってくれているのだと分かる。
 奈津が小さく笑った、その時。

 「つーか、その『夜刀様』っての、そろそろやめろ」

 「え?」

 「お前が言うと、なんか気色悪ぃ」

 「ええ……?」

 あまりの言われように、奈津は困惑する。

 「奈津」

 「……?」

 「俺はそう呼ぶ。だからお前もそうしろ」

 奈津は目を丸くした。

 「呼び捨て、ですか……?」

 「ほら」

 促され、奈津は戸惑いながら口を開く。

 「……や、夜刀」

 「何だ、その片言(カタコト)」

 「慣れていないんですから、仕方ないじゃないですか……!」

 夜刀が小さく鼻を鳴らす。

 「そのうち慣れんだろ」

 そう言って、さっさと歩いていってしまう。
 奈津はその背中を見送りながら、無意識に口元を緩めた。

 「……夜刀、か」

 まだ少しだけ、慣れない。
 それでも、以前よりずっと近くなったような気がした。