あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~


 「奈津様!?」

 コマが目を見開く。
 その後ろから追ってきた九重が、困ったように息を吐いた。

 「ですから、お休みになってくださいと……」

 「すみません……」

 奈津はゆっくりと広間へ足を踏み入れる。
 まだ顔色は悪い。身体にも重さが残り、足元も覚束ない。
 紫鬼の眉間に皺が寄った。

 「なぜ起きている」

 「……声が聞こえて」

 「部屋へ戻れ」

 「でも――」

 「昨日あれほどの状態になったばかりだろう」

 強い声音に、奈津の肩が揺れる。
 それでも、二人へ視線を向けた。

 目が合った瞬間、身体が強張る。

 冷たい水の感触が蘇った。
 死ぬのではないかと思うほど苦しく、怖かった。
 今だって、その恐怖が消えたわけではない。

 奈津は胸元で手を握った。

 「その方たちへの罰を、なくしてほしいとは申しません」

 二人が弾かれたように顔を上げる。

 「したことが許されることではないのも、分かっています」

 奈津は一度、息を整えた。

 「でも……死罪だけは、お考え直しいただけませんか」

 広間がざわめく。
 夜刀が険しい顔で奈津を見つめる中、紫鬼だけは表情を変えなかった。
 ただ、その紫の瞳が、奈津の真意を探るようにじっと向けられる。

 「そいつらは、お前を殺しかけたんだぞ」

 「……はい」

 「それでも命を助けろと?」

 奈津は少しだけ間を置き、頷いた。

 「はい」

 「なぜだ」

 奈津は紫鬼を見つめた。

 「……紫鬼様は、妖の皆様を守るために、ずっとご自分を犠牲にしてこられたのでしょう?」

 紫鬼は黙っている。

 「どれほど苦しくても、誰かを救えるならと……その身に穢れを引き受けて」

 誰よりも、この屋敷にいる者たちを守ろうとしている——だからこそ。

 「そんな紫鬼様が、ご自分で守ってきた方の命を奪うのは……きっと、お辛いと思うんです」

 紫鬼の瞳が揺れた。

 「……俺が?」

 「はい」

 「お前を殺しかけた者だぞ」

 「それでもです」

 奈津は迷わず答えた。

 「この方たちを許したわけではありません」

 二人の若い鬼が息を呑む。

 「怖かったことも、苦しかったことも忘れられません」

 奈津は、まっすぐ紫鬼を見上げた。

 「それでも……私は、紫鬼様にも、これ以上苦しんでほしくありません」

 紫鬼が言葉を失った。
 広間もまた、静まり返る。

 妖を守るために、自ら傷つき続けてきた紫鬼。
 だからこそ今度は、その手で守ってきた命まで奪ってほしくなかった。

 「……甘いな」

 紫鬼は奈津を見つめたまま、低く言葉を落とした。

 「そう……かもしれません」

 「その甘さが、いつかお前自身を殺すぞ」

 奈津は一瞬、言葉を詰まらせた。
 それでも、目を逸らさない。

 長い沈黙の後。
 紫鬼を取り巻いていた妖気が、ゆっくりと収まっていった。