あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 紫鬼は黙ったまま、その手を見つめる。
 傷だらけで、震えている手。
 それでも奈津は、引っ込めようとしなかった。

 長い沈黙のあと。
 紫鬼が脇息から身体を起こした。

 「紫鬼様」

 九重の制止も構わず、紫鬼は立ち上がった。
 一歩踏み出すたびに身体が揺れる。
 それでもふらつく足を止めず、奈津の前まで辿り着いた。

 「……本当に」

 紫鬼が低く呟いた。

 「理解できない人間だ」

 そして、自ら奈津の手を取った。
 その瞬間――眩い光が弾けた。

 「……っ!」

 奈津の身体が大きく震える。
 これまでとは比べものにならないほど強い光が、二人の繋いだ手から溢れ出した。
 白い光は瞬く間に紫鬼の腕を伝い、その全身を包み込んでいく。

 「これは……」

 九重が目を見開く。

 紫鬼の身体に纏わりついていた黒い穢れが、光に触れた途端、激しく揺らめいた。
 幾重にも絡みついていた黒が、一筋ずつほどけていく。
 今夜新たに引き受けた穢れが、白い光の中へ溶けるように消えていった。

 けれど――。

 「……っ、ぅ……」

 奈津の喉から苦しげな声が漏れる。
 胸の奥が焼けるように熱い。
 地下水路で身体へ入り込んだ穢れが、内側から暴れ回っているようだった。

 息を吸うたびに肺が軋む。
 それでも奈津は、紫鬼の手を離さなかった。

 「人間」

 紫鬼が眉を寄せる。
 奈津の顔から、みるみる血の気が失われていく。

 「もういい。手を離せ」

 「まだ……です……」

 「十分だ」

 奈津には分かる。
 今日、紫鬼が引き受けた穢れが、まだ残っている。
 あと少し、もう少しだけ――。

 「やめろ」

 紫鬼の声が強くなる。

 「これ以上は許さない」

 奈津は小さく首を振った。

 「……大丈夫、です」

 「嘘を言うな」

 間髪を入れず返ってきた。
 その声には、これまで聞いたことのない焦りが滲んでいる。

 「紫鬼様こそ……」

 奈津は掠れた声で言う。

 「いつも、大丈夫ではないのに……大丈夫なふりをしているではありませんか」

 紫鬼の瞳が揺れた。

 奈津は目を閉じる。
 そして、残された力を振り絞った。

 白い光が一際強く輝く。
 紫鬼の全身を覆っていた黒い穢れが、光の中で激しく揺らめいた。

 やがて――ふっと、光が収まる。

 静寂が戻った。
 紫鬼がゆっくりと息を吐く。
 先ほどまで浅かった呼吸が、明らかに落ち着いていた。
 青白かった顔にも、僅かに血色が戻っている。
 今夜新たに引き受けた穢れは、ほとんど消えていた。

 「紫鬼様……」

 九重の声に、安堵が滲む。
 奈津もぼんやりと紫鬼を見上げた。
 先ほどまで苦痛に歪んでいた顔が、少しだけ穏やかになっている。

 「……よかった……」

 奈津の唇に、微かな笑みが浮かぶ。

 「紫鬼様……楽に、なった……?」

 「おい」

 紫鬼の表情が変わった。
 奈津の身体から、完全に力が抜ける。

 「奈津様!」

 コマの声が響く。
 夜刀が咄嗟に手を伸ばす。

 けれど、それより早く。
 紫鬼が奈津の身体を抱き留めていた。
 奈津の頬が、紫鬼の胸元へ触れる。

 「人間」

 頭上から声がする。
 けれど、返事をする力がない。

 奈津は重たい瞼を僅かに持ち上げた。
 ぼやけた視界の向こうに、白銀の髪と深紫の瞳が見える。
 その瞳には、これまで見たことのない焦りが滲んでいた。

 (紫鬼様……)

 瞼が落ちる。

 「――奈津」

 低い声が、耳に届いた。
 遠のく意識の中で、確かに自分の名を聞いた。

 今、紫鬼様が――。
 そう思ったところで、奈津の意識は深い闇へ落ちていった。