あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 その頃、紫鬼は自室へと運ばれていた。

 脇息に身体を預け、浅い呼吸を繰り返している。
 横になるよう九重に再三言われても、頑として聞かなかった。
 全身から滲む黒い穢れは、未だ収まる気配がない。

 「紫鬼様!」

 そこへ、コマが勢いよく駆け込んできた。
 傍らに控えていた九重が振り返る。

 「コマ。癒し子様は?」

 「見つかりました!」

 その言葉に、張り詰めていた空気が緩む。
 しかし、コマの表情は晴れなかった。

 「でも……奈津様、すごく弱ってて……」

 「何?」

 九重の顔色が変わる。
 紫鬼もゆっくりと顔を上げた。

 「どういうことだ」

 「全身びしょ濡れで、怪我もしてて……夜刀様が今、こちらへ連れてきてくださっています」

 その時。廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。

 「どけ!」

 夜刀の声が響く。
 勢いよく障子が開いた。

 「紫鬼様」

 現れた夜刀の背には、奈津がいた。

 「……!」

 九重が息を呑む。
 紫鬼の深紫の瞳も、大きく見開かれた。
 奈津の黒髪は濡れて頬に張りつき、着物も水を吸って身体へまとわりついている。
 手や膝には擦り傷があり、顔にはほとんど血の気がなかった。

 「癒し子様……!」

 九重が駆け寄る。

 「一体、何があったのです」

 「地下水路に落とされてた」

 夜刀が低く答える。

 「穢れにもやられてる」

 「地下水路に……?」

 九重の声から、いつもの穏やかさが消えた。

 「急いで湯の準備を。身体を温めて――」

 九重が周囲へ指示を飛ばす。
 その中で奈津は、夜刀の背から紫鬼へ視線を向けた。
 そして初めて、今の紫鬼の姿をまともに目にする。

 「……っ」

 奈津の顔が強張った。
 全身に纏わりつく黒い穢れ。
 白銀の髪の隙間から覗く顔は青白く、脇息へ身体を預けていなければ、座っていることすら難しそうだった。

 「そんな……」

 奈津の指先が震える。

 「癒し子様、今はあなたの治療が先です」

 九重が奈津へ手を伸ばす。

 「……待ってください」

 「ですが」

 「紫鬼様を、先に」

 その場が静まり返った。
 紫鬼の眉間に皺が寄る。

 「人間」

 奈津が顔を上げる。

 「今のお前に力を使わせるつもりはない」

 「でも……」

 「自分の姿を見ろ」

 弱っているにもかかわらず、拒絶だけははっきりしていた。

 「その状態で俺の穢れに触れれば、どうなるか分からん」

 奈津は唇を結ぶ。

 「それでも……」

 「やめろ」

 紫鬼が言い切る。
 けれど奈津は、視線を逸らさなかった。

 「紫鬼様も、苦しいのでしょう?」

 「俺はいい」

 「よくありません」

 震えながらも、思いのほか強い声が出た。
 紫鬼が僅かに目を見開く。

 「今までずっと、そうやって我慢してきたのでしょう?」

 紫鬼は唇を引き結んだ。

 「誰かを救うたびに、ご自分だけが苦しんで」

 九重が僅かに目を伏せる。

 「でも、今は私がいます」

 奈津は震える手を伸ばした。
 けれど、その手は紫鬼には届かない。
 今の奈津には、あと数歩を歩く力さえ残っていなかった。

 「私にできることがあるのなら、させてください」