「奈津様!」
コマが駆け寄る。
その声に、奈津がゆっくりと顔を上げた。
「……コマ……?」
続いて、その後ろにいる夜刀へ目を向ける。
「夜刀、様……」
二人の姿を認めた途端、張り詰めていた糸が切れたように身体が傾いた。
「おい!」
夜刀が咄嗟に踏み込み、その身体を受け止める。
腕に伝わってきた冷たさに、夜刀の顔色が変わった。
「冷てぇ……」
人間の身体とは思えないほど、冷え切っている。
「奈津様……!」
コマが泣きそうな顔で奈津を覗き込む。
「お前……一人でここまで来たのか?」
奈津は答えようとしたものの、激しく咳き込んだ。
「げほっ……けほ……!」
「もういい。喋んな」
夜刀は奈津の身体を支え直す。
「コマ、九重を呼んでこい」
「はい!」
「……待って、ください」
弱々しい声が、二人を止めた。
「何だ」
奈津の手が、夜刀の袖を掴む。
「紫鬼様は……」
夜刀の表情が僅かに強張る。
「もう……お戻りですか?」
「……ああ」
奈津の瞳が揺れた。
「だったら……行かなくちゃ……」
夜刀の腕から離れようとする。
「おい」
「紫鬼様の、ところへ……」
けれど足に力が入らず、身体が再び傾く。
夜刀が支え直した。
「馬鹿言ってんじゃねぇ」
夜刀の声が荒くなる。
「自分がどんな状態か分かってんのか。穢れにやられて、まともに立ててもいねぇだろ」
「でも……」
「でもじゃねぇ。まず自分のこと考えろ」
「そうです!」
コマも必死に訴える。
「奈津様、今は休んでください。紫鬼様だって、こんな奈津様を見たら――」
奈津は唇を噛んだ。
「……紫鬼様は、大丈夫なのですか?」
夜刀は答えなかった。コマも言葉を詰まらせる。
その沈黙だけで、奈津には十分だった。
「……やっぱり」
「おい」
「連れていってください」
「は?」
「紫鬼様のところへ」
夜刀の眉間に深い皺が刻まれる。
「……自分がこんな目に遭ってまで、まだ紫鬼様の心配かよ」
奈津は一瞬、言葉に詰まった。
「……今日も、誰かを助けるために穢れを引き受けたんですよね」
夜刀が黙る。
「だったら……放っておけません」
掠れた声で、奈津は続けた。
「紫鬼様が苦しんでいるのに、私なら少しでも楽にしてあげられるのに……何もしないなんて、できません」
奈津は夜刀を見上げる。
その瞳には、迷いがなかった。
「お願いします。紫鬼様のところへ、連れていってください」
夜刀は何も言わず、奈津を見つめた。
その表情に、これまでにはなかった戸惑いが浮かぶ。
自分が傷つき、まともに立つことさえできないというのに、奈津が案じているのは紫鬼のことばかりだった。
「……ほんっと、わけ分かんねぇ人間だな」
夜刀が、絞り出すように零す。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
「コマ、先に戻れ。紫鬼様と九重に、見つけたって伝えろ」
「分かりました!」
コマは頷いたものの、心配そうに奈津を見る。
「奈津様……」
「だい、じょうぶ。心配してくれて、ありがとう」
「……すぐ戻りますから!」
コマはそう言い残し、駆け出した。
「乗れ」
夜刀が奈津へ背を向け、その場にしゃがみ込む。
「……え?」
「紫鬼様んとこ行くんだろ」
奈津が目を見開く。
「その足じゃ、いつ着くか分かんねぇ。さっさと乗れ」
「……はい」
奈津はおずおずと、夜刀の背へ身体を預けた。
「ありがとうございます、夜刀様」
「……礼はいい」
夜刀は奈津の腕を自分の肩へ回させ、その脚をしっかりと抱える。
「力入んなくてもいい。落とさねぇ」
「……はい」
夜刀は奈津を背負って立ち上がった。
濡れた着物越しに伝わる冷たさに、眉を寄せる。
背中に感じる呼吸も、ひどく弱い。
夜刀は奈津を支える腕に力を込め、紫鬼のもとへ急いだ。

