あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 咄嗟に手を伸ばすが、何にも届かない。
 肩を打ち、腕を擦り、何度も身体を石へ打ちつけながら転がり落ちていく。
 やがて石段が途切れた。

 次の瞬間――冷たい水が、全身を呑み込んだ。

 「……っ、げほ……!」

 濡れた髪が頬に張りつき、水を吸った着物が重く身体にまとわりつく。
 足を伸ばすと、どうにか爪先が底へついた。
 水は胸元ほどまでだが、地下の冷水はみるみる身体から熱を奪っていく。

 「はぁ……っ、は……」

 奈津は震える手で、近くの石壁へ縋る。
 身体中が痛い。
 特に石段へ打ちつけた肩と腕が、じくじくと疼いていた。

 それでも、ここから出なければ。
 壁へ手をつき、身体を起こそうとした時だった。

 「……っ」

 足元から、ぞわりと嫌な感覚が這い上がってくる。
 冷たさとは違う。
 黒い泥が、皮膚の内側へ染み込んでくるような感覚だった。

 (これ……)

 知っている。
 紫鬼に触れた時に感じるものと、よく似ている。

 (穢れ……?)

 この水に、穢れが澱んでいる。
 そう気づいた途端、強い吐き気が込み上げた。

 「う……っ」

 奈津は口元を押さえる。
 頭が重い。息まで苦しくなっていく。

 紫鬼の中にある穢れに触れた時とは、まるで違った。
 あの時は、紫鬼の内側にあるものを奈津の力が感じ取っていただけだ。
 けれど今は――水に混じった穢れが、直接身体を蝕んでいる。

 「……っ」

 視界が揺れる。
 その時、頭上から声が落ちてきた。

 「……これで少しは懲りるだろ」

 「ああ。この程度なら大したことにはならない」

 奈津が顔を上げる。
 遥か上の石段に、二人の姿があった。

 「行くぞ」

 「待っ……」

 声を出そうとしても、喉がうまく動かなかった。
 二人の足音が遠ざかっていく。

 「っ……は……」

 石壁へ縋ったまま、荒い息を繰り返す。

 (ここから……出ないと……)

 水の中にいるだけで、身体がどんどん重くなっていく。
 奈津は震える足に力を込め、どうにか立ち上がった。
 石壁を伝いながら、石段の方へ進もうとする。
 その時だった。

 「……っ!」

 下腹部に鋭い痛みが走る。
 奈津は咄嗟に腹を押さえた。
 宗一に蹴られて以来、まだ時折疼いていた場所だ。

 転落の衝撃と、冷え切った身体。
 そこへ穢れまで入り込んだせいだろうか。
 治まりかけていた痛みが、再び強く脈打ち始める。

 「ぅ……っ」

 膝から力が抜けた。
 奈津はその場へ崩れ落ちる。
 水が大きく跳ね、冷え切った身体をさらに濡らした。

 (駄目……)

 ここで倒れてはいけない。
 ここから出なければ。

 今夜も紫鬼は、誰かの穢れを引き受けて帰ってくる。
 きっとまた、苦しんでいる。

 (私が……行かなくちゃ……)

 そう思うのに、身体が言うことをきかない。
 奈津の瞼が、ゆっくりと落ちていく。

 やがて――。
 冷たい水の音さえ、遠ざかっていった。