あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 一方、同時刻――九条家。
 綾乃が自室へ戻ろうとしていたところへ、聞き慣れた声が追いかけてきた。

 「綾乃」

 振り返ると、宗一がこちらへ歩いてくるところだった。

 「宗一さん」

 綾乃は、いつものように柔らかな笑みを浮かべる。
 宗一も嬉しそうに表情を緩めると、すっかり恋人にでもなったつもりなのか、当然のように距離を詰めてきた。
 腰へ回されかけた腕を、綾乃は笑顔のまま半歩横へずれてかわす。
 伸ばされた手が空を切った。

 「……綾乃?」

 「ごめんなさい。少し疲れていて」

 「ああ……そうか」

 宗一は不満そうにしながらも、手を引いた。
 けれど、その場を離れようとはしない。

 「それより……奈津のことなんだが」

 綾乃の笑みが、ほんの僅かに固まった。

 数日前。紫鬼に連れられ、奈津がこの家へ戻ってきた翌日。

 父・正臣は、綾乃と宗一を呼び出した。
 奈津が、二人に縛られて《結界の森》へ捨てられたと訴えている。
 本当なのか、と。

 もちろん、綾乃は否定した。
 奈津は婚姻のことで思い詰め、混乱しているのだと。
 自分たちは途中まで一緒にいただけだと。

 宗一も、それに話を合わせた。
 証拠はない。
 父も二人の言葉を完全に信じた様子ではなかったが、それ以上追及することはなかった。

 ただ一言。
 ――堂目道家にこれ以上目をつけられるような真似はするな。
 そう釘を刺されただけだった。

 「奈津……僕たちのこと、堂目道家当主にどこまで話したんだ?」

 宗一の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。

 「さあ?」

 綾乃は首を傾げる。

 「お父様の前では、森へ連れていかれたことまで話していたでしょう?」

 「だから聞いてるんだよ」

 宗一が苛立ったように声を低くする。

 「あの方に全部知られたら、僕だってただじゃ済まない」

 綾乃は、内心で冷めた目を向けた。
 今さら、何を怯えているのだろう。
 あの時、自らの手で奈津を捨てると決めたくせに。