あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 人の出入りがほとんどない、屋敷の端の廊下。
 奈津は床に膝をつき、雑巾を動かしていた。
 ここなら、忙しく働いている女中たちの邪魔にもならない。
 誰かの仕事を奪ってしまうこともないだろう。

 (これくらいなら……)

 そう思って、廊下の隅まで丁寧に拭いていた時だった。

 「……お前、何してやがる」

 奈津の肩がびくりと跳ねた。
 恐る恐る振り返る。

 「や、夜刀様……」

 夜刀の視線が奈津から、その手に握られた雑巾へ落ちる。

 「そ、掃除を……」

 「見りゃ分かる」

 夜刀は眉間に皺を寄せた。

 「お前、昨日ぶっ倒れたばっかだろ」

 「でも、もう大丈夫です。少し身体が重いくらいで――」

 「それで大丈夫じゃねぇのがお前らひ弱な人間だろうが」

 「……え?」

 奈津は思わず夜刀を見上げた。
 まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。

 「でも……これくらいなら、いつも動いていましたから」

 「は?」

 「熱がある時でも、家のことはしなければなりませんでしたし……」

 奈津にとっては、ごく当たり前のことだった。
 けれど夜刀は、理解できないものを見るように眉をひそめた。

 「……お前、馬鹿なのか?」

 「えっ」

 「具合悪ぃなら寝てろ」

 奈津は目を瞬いた。
 具合が悪ければ、休む。
 そんな当たり前のことを、自分は今まで誰かに言われたことがあっただろうか。

 「……なんだよ」

 「いえ……」

 奈津は慌てて首を横に振った。

 「なんでもありません」

 夜刀は訝しげに奈津を見たあと、ふん、と鼻を鳴らした。

 「とにかく、妙な真似だけはすんなよ」

 「……はい」

 「昨日のことで、お前を信用したわけじゃねぇからな」

 「分かっています」

 奈津が素直に頷くと、夜刀はしばらく黙っていた。

 「……人間なんざ、すぐに裏切るからな」

 吐き捨てるような声だった。
 奈津は目を瞬く。
 その言い方が、妙に引っかかった。

 「夜刀様……?」

 夜刀は、余計なことまで口にしたとでもいうように小さく舌打ちした。
 そして、話を切るように奈津の手元へ視線を落とす。

 「で、その雑巾はいつまで持ってんだ」

 「あ……」

 奈津は自分の手を見る。

 「もう少しだけ、ここを――」

 「寝てろっつってんだろ」

 「……はい」

 今度こそ奈津は雑巾を置いた。
 夜刀はそれを見届けると、背を向ける。

 「まったく……わけ分かんねぇ人間だな」

 ぼそりと零して、そのまま歩き去っていった。
 奈津は遠ざかる背中を見つめる。

 『人間なんざ、すぐに裏切るからな』

 その言葉だけが、耳に残った。
 夜刀がなぜ、あれほど人間を信用していないのか。
 奈津には、まだ分からなかった。