九重が言葉を失った。
夜刀も、まだ信じられないものを見るように奈津を見ている。
「……本当に……?」
コマだけが、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり奈津様です!」
「……でも……」
奈津は紫鬼の手を見つめた。
確かに穢れは減った。けれど、すべてではない。
奥深くに沈んでいるものは、まだそこにある。
「……少ししか、消せませんでした」
その言葉に、紫鬼が奈津を見る。
「違う」
「え……?」
「少しでも消えたことなど、一度もない」
奈津は目を見開いた。
九重も、何も言わない。ただ、いつも穏やかな微笑みを絶やさないその顔から、完全に笑みが消えていた。
夜刀もまた、信じられないものを見るように奈津を見つめている。
その反応だけで分かった。
今、自分がしたことが――彼らにとって、どれほどあり得ないことだったのか。
「……」
奈津は自分の手へ目を落とした。
ずっと、何の役にも立たないと思っていた手。
「よかった……」
安堵した途端、視界がぐらりと揺れた。
「奈津様?」
コマの声が遠く聞こえる。
身体に力が入らない。
「……っ」
膝から力が抜け、そのまま地面へ崩れ落ちる。
紫鬼の手が、咄嗟に奈津へ伸びた。
「奈津様!」
その時、眩い光が弾ける。
小柄な少年の姿が光に包まれ、その輪郭が大きく変わっていった。
次の瞬間。
奈津の身体を、ふわりと柔らかなものが受け止めた。
「……?」
薄く目を開ける。
淡い乳白色に、蜂蜜を溶かしたような柔らかな毛並み。
すぐそばには、見覚えのある琥珀色の瞳があった。
「……コマ?」
『はい!』
聞き慣れた声が返ってくる。
その姿は、大きな狛犬そのものだった。
『大丈夫です、奈津様。ぼくにつかまってください!』
「コマ……その姿……」
『こっちが本来の姿です!』
どこか誇らしげな声に、奈津の頬が緩む。
力の入らない身体を、コマの柔らかな背へ預ける。
「よかった……」
『え?』
「紫鬼様……少しでも、楽になったなら……」
コマがぱちりと目を瞬いた。
紫鬼も、奈津を見る。自分は立っていることさえできないというのに。
それでも奈津が気にしているのは、自分の身体ではなかった。
夜刀は何も言わない。
ただ、コマにもたれかかる奈津をじっと見つめていた。
自分が倒れるほど力を使っておきながら、真っ先に案じるのは紫鬼のこと。
夜刀の眉間に、僅かに皺が寄る。
その金の瞳には、これまでとは異なる色が浮かんでいた。
「今夜はここまでにいたしましょう」
九重が静かに告げる。
「癒し子様をお部屋へ」
『はい!』
コマが元気よく返事をする。
『奈津様、しっかりつかまっていてくださいね』
「……ありがとう、コマ」
奈津はその毛並みに頬を預けた。
コマがゆっくりと屋敷へ向かう。
夜刀は、その後ろ姿を黙って見送っていた。
ふと、傍らへ視線を向ける。
紫鬼もまた――。
遠ざかっていく奈津の背中を、じっと見つめていた。

