あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 奈津は、黒い靄に覆われた紫鬼を見つめた。

 「もしかして……その穢れは」

 「お前には関係ない」

 紫鬼が奈津の言葉を遮る。

 「部屋へ戻れ」

 「でも――」

 紫鬼は片手を地面につき、立ち上がろうとした。
 けれど、その身体がぐらりと傾く。

 「紫鬼様!」

 考えるより先に身体が動いた。
 奈津は庭へ駆け下り、倒れかけた紫鬼を咄嗟に両腕で支える。

 「触るな……!」

 「でも、このままでは……」

 「離れろ」

 そう言われても、奈津は手を離せなかった。
 すぐそばで、黒い穢れが蠢いている。

 コマの時と同じだ。あの夜は、ただ助けたいと願った。
 すると、身体の奥から眩い光が溢れ出した。

 (だったら……)

 紫鬼を支える手に、そっと力を込める。

 (お願い。この穢れを……消して)

 目を閉じ、強く願った。
 けれど――。

 「……?」

 何も起こらない。
 あの夜のような光は現れず、紫鬼を覆う穢れも変わらずその身体にまとわりついている。

 「どうして……」

 もう一度。今度は、さらに強く願う。

 (お願い……消えて……!)

 それでも、何も変わらなかった。

 「もういい」

 紫鬼の声が落ちる。

 「待ってください。もう一度――」

 「無理だ」

 胸が、ずきりと痛んだ。
 聞き慣れた言葉だった。

 ――お前には無理だ。
 何もできない。何の力もない。出来損ない。
 これまで何度も浴びせられてきた言葉が、頭の奥に蘇る。

 「……でも」

 奈津は小さく首を振った。

 「コマの時は……できたんです」

 なのに今は、何も起こらない。
 助けたいと思っているのに、この手は何もしてくれない。

 「どうして……?」

 奈津は自分の手を見つめた。

 「どうして、助けられないの……?」

 「手を離せ」

 低い声が落ちてくる。
 奈津が顔を上げると、紫鬼は苦痛を押し隠すようにこちらを見ていた。

 「これは、お前が関わることじゃない」

 「でも……」

 紫鬼は奈津の手を外し、ゆっくりと立ち上がった。
 その身体が一度、ふらつく。
 奈津は反射的に手を伸ばしかけた。

 「来るな」

 伸ばしかけた手が止まる。
 紫鬼はそれ以上何も言わず、奈津へ背を向けた。
 足取りは、いつもよりずっと遅い。
 それでも、誰の手も借りるつもりはないと拒むように、一歩ずつ屋敷へ戻っていく。

 奈津は、その場から動けなかった。
 やがて白銀の髪が、夜の廊下の向こうへ消えていく。

 残された奈津は、もう一度自分の手のひらを見た。
 あの夜は、この手から確かに光が溢れた。
 なのに今は――何ひとつ、できなかった。