この国では、人と妖が共に生きている。
けれど、その力は決して対等ではない。
人より遥かに長く生き、強大な力を持つ妖。
とりわけ高位の妖ともなれば、人間の力など到底及ばない。
けれど、かつて人と妖は激しく争っていた時代があった。
もともとは同じ土地で暮らしていた両者だったが、人の数が増え、町や田畑を広げるにつれて、妖たちの住処は奪われていった。
やがて人間の中には、霊力を操り、妖を討つ術を持つ者たちが現れる。
現在《祓い師》と呼ばれる者たちの祖先だ。
当時の権力者たちは《人々を守るため》という大義名分のもと、祓い師の力を使って妖を土地から追い払った。
住処や仲間を奪われた妖たちも人間を敵とみなし、やがて両者は大きな争いへと発展していった。
戦力では妖が勝っていた。
しかし戦いが長引くほど、恐怖や憎しみ、悲しみから生まれる《穢れ》が世に溢れ、力の弱い妖たちから倒れていった。
妖は穢れを溜め込みすぎれば異形化し、自我も本来の姿も失ってしまう。
そして長い争いの中で、その穢れを取り除く力が人間にあることが分かった。
人間の娘に、ごく稀に宿る――《浄化の力》。
その存在をきっかけに人と妖の間には和議が結ばれ、長い争いは終わった。
以来、浄化の力を持つ娘は妖にとって非常に貴重な存在となり、年頃になれば妖の家へ花嫁として迎えられる者も多い。
とりわけ高位の妖に選ばれることは、その生家にとって大きな名誉となる。
一方、現在の祓い師は、妖そのものを敵として討つ存在ではない。
人に危害を加える妖や、穢れによって異形化した妖を討ち、被害を防ぐことを役目としている。
九条家は、そんな祓い師を代々輩出してきた家だった。
昨夜、異形化した妖を鎮めるために父たちが駆けつけたのも、その役目ゆえである。
奈津の母・佐代子はもともと身体が弱く、奈津を産んだあと、二人目の子を望める状態ではなかった。
跡取りとなる男児を得られない以上、父の期待は長女である奈津へ向けられた。
九条家の長女として。
せめて強い浄化の力を宿してほしい――と。
『奈津には、まだ力が現れないのか』
幼い奈津の前で、正臣は険しい顔をしていた。
『もう少し待ってください。この子はまだ幼いですから』
佐代子はそう言って、常に奈津を庇ってくれた。
しかし、それから何度調べても、奈津にはその兆しすら現れなかった。
浄化の力は、多くの場合、幼いうちに兆しを見せる。
十歳を過ぎても何も現れなければ、その後目覚めることはほとんどないとされていた。
そして奈津は、何の変化もないまま十歳を迎えた。
『……もう、見込みはないということか』
正臣の低い声が、今でも耳に残っている。
『そんな……まだ、この子は――』
『十歳だぞ』
佐代子の言葉を遮り、正臣は冷たく言い放った。
『これ以上、何を期待しろというんだ』
奈津は襖の向こうで、息を殺していた。
『跡取りとなる男児も産めず、そのうえ奈津に浄化の力すらないとは……』
正臣の苛立った声が響く。
『お前の一族には、強い浄化の力を持つ女が生まれると聞いていた。だから身体の弱いお前でも、九条家に迎えたというのに』
『……申し訳、ありません』
佐代子の弱々しい声に、幼い奈津の胸が締めつけられた。
自分に力がないせいで、母まで責められている。
――ごめんなさい。
何度、心の中でそう繰り返しただろう。
それでも奈津は、いつか力が現れることを願い続けた。
けれど、その願いが叶うことはなかった。
それからほどなくして、もともと身体の弱かった佐代子は病に伏せることが増えた。
そして――奈津が十二歳になる前に、息を引き取った。
『今日からこの二人も、この家で暮らす』
母を失って間もなく、父は新しい妻を迎えた。
継母となる明美。
そしてその傍らには、綾乃がいた。
後になって、奈津は知ることになる。
明美は、母が生きていた頃から父と関係を持っていたこと。
そして綾乃は、正臣と明美の間に生まれた娘だったことを。
けれど当時の奈津は、そんなことなど知る由もなかった。
『これからよろしくお願いします、お姉様』
綾乃は愛らしく微笑んだ。
突然できた妹に戸惑いながらも、奈津はほんの少し嬉しかった。
明美も、初めのうちは優しかった。
『今日から私を母だと思ってちょうだいね』
そう言って、奈津の頭を撫でてくれた。
母を亡くしたばかりの奈津には、その優しさが嬉しかった。
――けれど。
正臣の目が届かなくなれば、その笑顔は簡単に消えた。
掃除が遅れれば叱られ、埃が残っていれば手を打たれる。
口答えをすれば、一日中暗い蔵へ閉じ込められることもあった。
『どうせあなたには浄化の力がないんだもの。家のことをしていた方が、よほど役に立つでしょう?』
やがて、綾乃も本性を見せ始めた。
『お姉様、これちょうだい?』
綾乃は、奈津のものを何でも欲しがった。
着物も、簪も、書物も。
亡き母の形見だけは渡せないと拒めば、すぐに明美へ泣きついた。
『綾乃を苛めたそうね』
何度違うと訴えても、奈津の言葉を信じてもらえることはない。
折檻される奈津を見つめる綾乃の顔には、もう涙など浮かんでいなかった。
楽しげに、笑っていた。
そして――。
そんな綾乃に、奈津がどれほど願っても得られなかった、浄化の力が宿っていることが分かった。
綾乃が手をかざすと、淡い光が溢れ、妖の身にまとわりついていた穢れがみるみる薄れていく。
『おお……』
周囲から感嘆の声が上がった。
正臣の顔にも、奈津には一度も向けられたことのない喜びが浮かぶ。
『素晴らしいぞ、綾乃!』
『本当? お父様』
『ああ。これほどの力なら、高位の妖からも望まれるだろう』
綾乃は嬉しそうに笑った。
その光景を、奈津は少し離れたところから見つめていた。
自分だって。
一度でいいから、あんな風に父に喜んでもらいたかった。
けれど、奈津の手に光が宿ることはなかった。
正臣の視線が奈津へ向く。
先ほどまでの笑みが、すっと消えた。
『……同じ私の娘とは思えんな』
奈津は唇を噛み、俯く。
『九条の名を名乗ることすら恥ずかしい』
それからだった。
奈津が「出来損ない」と呼ばれるようになったのは。
綾乃は上等な着物を与えられ、浄化の娘として大切に育てられた。
一方の奈津は、家の奥へ追いやられていく。
掃除も、洗濯も、食事の支度も。
いつしか九条家の娘ではなく、使用人のように扱われることが当たり前になっていた。
母はもういない。
父も助けてくれない。
奈津を守ってくれる人は、もう誰もいなかった。
けれど、その力は決して対等ではない。
人より遥かに長く生き、強大な力を持つ妖。
とりわけ高位の妖ともなれば、人間の力など到底及ばない。
けれど、かつて人と妖は激しく争っていた時代があった。
もともとは同じ土地で暮らしていた両者だったが、人の数が増え、町や田畑を広げるにつれて、妖たちの住処は奪われていった。
やがて人間の中には、霊力を操り、妖を討つ術を持つ者たちが現れる。
現在《祓い師》と呼ばれる者たちの祖先だ。
当時の権力者たちは《人々を守るため》という大義名分のもと、祓い師の力を使って妖を土地から追い払った。
住処や仲間を奪われた妖たちも人間を敵とみなし、やがて両者は大きな争いへと発展していった。
戦力では妖が勝っていた。
しかし戦いが長引くほど、恐怖や憎しみ、悲しみから生まれる《穢れ》が世に溢れ、力の弱い妖たちから倒れていった。
妖は穢れを溜め込みすぎれば異形化し、自我も本来の姿も失ってしまう。
そして長い争いの中で、その穢れを取り除く力が人間にあることが分かった。
人間の娘に、ごく稀に宿る――《浄化の力》。
その存在をきっかけに人と妖の間には和議が結ばれ、長い争いは終わった。
以来、浄化の力を持つ娘は妖にとって非常に貴重な存在となり、年頃になれば妖の家へ花嫁として迎えられる者も多い。
とりわけ高位の妖に選ばれることは、その生家にとって大きな名誉となる。
一方、現在の祓い師は、妖そのものを敵として討つ存在ではない。
人に危害を加える妖や、穢れによって異形化した妖を討ち、被害を防ぐことを役目としている。
九条家は、そんな祓い師を代々輩出してきた家だった。
昨夜、異形化した妖を鎮めるために父たちが駆けつけたのも、その役目ゆえである。
奈津の母・佐代子はもともと身体が弱く、奈津を産んだあと、二人目の子を望める状態ではなかった。
跡取りとなる男児を得られない以上、父の期待は長女である奈津へ向けられた。
九条家の長女として。
せめて強い浄化の力を宿してほしい――と。
『奈津には、まだ力が現れないのか』
幼い奈津の前で、正臣は険しい顔をしていた。
『もう少し待ってください。この子はまだ幼いですから』
佐代子はそう言って、常に奈津を庇ってくれた。
しかし、それから何度調べても、奈津にはその兆しすら現れなかった。
浄化の力は、多くの場合、幼いうちに兆しを見せる。
十歳を過ぎても何も現れなければ、その後目覚めることはほとんどないとされていた。
そして奈津は、何の変化もないまま十歳を迎えた。
『……もう、見込みはないということか』
正臣の低い声が、今でも耳に残っている。
『そんな……まだ、この子は――』
『十歳だぞ』
佐代子の言葉を遮り、正臣は冷たく言い放った。
『これ以上、何を期待しろというんだ』
奈津は襖の向こうで、息を殺していた。
『跡取りとなる男児も産めず、そのうえ奈津に浄化の力すらないとは……』
正臣の苛立った声が響く。
『お前の一族には、強い浄化の力を持つ女が生まれると聞いていた。だから身体の弱いお前でも、九条家に迎えたというのに』
『……申し訳、ありません』
佐代子の弱々しい声に、幼い奈津の胸が締めつけられた。
自分に力がないせいで、母まで責められている。
――ごめんなさい。
何度、心の中でそう繰り返しただろう。
それでも奈津は、いつか力が現れることを願い続けた。
けれど、その願いが叶うことはなかった。
それからほどなくして、もともと身体の弱かった佐代子は病に伏せることが増えた。
そして――奈津が十二歳になる前に、息を引き取った。
『今日からこの二人も、この家で暮らす』
母を失って間もなく、父は新しい妻を迎えた。
継母となる明美。
そしてその傍らには、綾乃がいた。
後になって、奈津は知ることになる。
明美は、母が生きていた頃から父と関係を持っていたこと。
そして綾乃は、正臣と明美の間に生まれた娘だったことを。
けれど当時の奈津は、そんなことなど知る由もなかった。
『これからよろしくお願いします、お姉様』
綾乃は愛らしく微笑んだ。
突然できた妹に戸惑いながらも、奈津はほんの少し嬉しかった。
明美も、初めのうちは優しかった。
『今日から私を母だと思ってちょうだいね』
そう言って、奈津の頭を撫でてくれた。
母を亡くしたばかりの奈津には、その優しさが嬉しかった。
――けれど。
正臣の目が届かなくなれば、その笑顔は簡単に消えた。
掃除が遅れれば叱られ、埃が残っていれば手を打たれる。
口答えをすれば、一日中暗い蔵へ閉じ込められることもあった。
『どうせあなたには浄化の力がないんだもの。家のことをしていた方が、よほど役に立つでしょう?』
やがて、綾乃も本性を見せ始めた。
『お姉様、これちょうだい?』
綾乃は、奈津のものを何でも欲しがった。
着物も、簪も、書物も。
亡き母の形見だけは渡せないと拒めば、すぐに明美へ泣きついた。
『綾乃を苛めたそうね』
何度違うと訴えても、奈津の言葉を信じてもらえることはない。
折檻される奈津を見つめる綾乃の顔には、もう涙など浮かんでいなかった。
楽しげに、笑っていた。
そして――。
そんな綾乃に、奈津がどれほど願っても得られなかった、浄化の力が宿っていることが分かった。
綾乃が手をかざすと、淡い光が溢れ、妖の身にまとわりついていた穢れがみるみる薄れていく。
『おお……』
周囲から感嘆の声が上がった。
正臣の顔にも、奈津には一度も向けられたことのない喜びが浮かぶ。
『素晴らしいぞ、綾乃!』
『本当? お父様』
『ああ。これほどの力なら、高位の妖からも望まれるだろう』
綾乃は嬉しそうに笑った。
その光景を、奈津は少し離れたところから見つめていた。
自分だって。
一度でいいから、あんな風に父に喜んでもらいたかった。
けれど、奈津の手に光が宿ることはなかった。
正臣の視線が奈津へ向く。
先ほどまでの笑みが、すっと消えた。
『……同じ私の娘とは思えんな』
奈津は唇を噛み、俯く。
『九条の名を名乗ることすら恥ずかしい』
それからだった。
奈津が「出来損ない」と呼ばれるようになったのは。
綾乃は上等な着物を与えられ、浄化の娘として大切に育てられた。
一方の奈津は、家の奥へ追いやられていく。
掃除も、洗濯も、食事の支度も。
いつしか九条家の娘ではなく、使用人のように扱われることが当たり前になっていた。
母はもういない。
父も助けてくれない。
奈津を守ってくれる人は、もう誰もいなかった。

