あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 馬車が九条家を離れていく。
 窓の外を、見慣れた町並みがゆっくりと流れていった。

 奈津は膝の上の風呂敷に手を置く。

 あの家を出てきた。
 幼い頃から、ずっと暮らしてきた場所。
 苦しくても、辛くても、そこしか自分の居場所はないと思っていた。

 けれど今、不思議と寂しさはなかった。
 少しずつ遠ざかっていく屋敷を眺めながら、奈津はようやく深く息を吐く。
 行きと変わらず、向かいには紫鬼、その隣には九重が座っている。

 紫鬼は背筋を伸ばしたまま、静かに窓の外を眺めていた。
 腿の上に置かれた片手へ、ふと奈津の目が留まった。長い指と、広い手のひら。
 その手に触れた感触が、まだどこかに残っているような気がする。

 『俺が花嫁候補とするのは、ただ一人だ』
 その言葉まで蘇ると、心のどこかがかすかに揺れた。

 奈津は何度か迷った末、口を開いた。

 「……あの」

 紫鬼が目を向ける。

 「先ほどは……ありがとうございました」

 「何がだ」

 奈津は風呂敷の上で指を重ねた。

 「その……いろいろと」

 うまく言葉にできず、視線を落とす。
 紫鬼はそんな奈津をしばらく見つめたあと、淡々と告げた。

 「ああでも言わなければ、あの女は引かなかっただろう」

 「……そう、ですよね」

 奈津は小さく頷いた。
 分かっていたはずなのに、胸の奥に淡い翳りが落ちる。

 「だが」

 その声に顔を上げる。

 「お前以外を花嫁候補にするつもりがないのは事実だ」

 「……え」

 奈津は目を瞬いた。
 その隣で、九重が穏やかに笑みを深める。

 「紫鬼様は、嘘がお嫌いですから」

 「九重」

 「これは失礼いたしました」

 悪びれた様子もなく微笑む九重を見て、奈津はますますどうしていいのか分からなくなる。
 たまらず窓の外へ顔を向けたものの、頬に集まった熱は、しばらく引いてくれそうになかった。
 馬車はそのまま、堂目道家へと走っていった。

 ◇

 堂目道家へ戻る頃には、空はすっかり暮れていた。
 馬車を降り、屋敷へ向かおうとしたところで、

 「奈津様ー!」
 聞き慣れた声とともに、小さな影が駆けてくる。

 「コマ?」

 「おかえりなさい!」

 奈津の前まで来ると、コマは嬉しそうに顔をほころばせた。
 その言葉に、奈津は一瞬だけ目を瞬く。

 「……ただいま」

 そう返すと、コマの耳がぴんと立った。

 「はい!」

 弾んだ返事に、奈津もつられて頬を緩める。
 やがて紫鬼や九重と別れ、奈津が自室へ戻ると、コマもそのあとをついてきた。

 「奈津様、ぼくもお荷物のお片づけを手伝います!」

 「ありがとう。そんなに多くないから、すぐ終わると思うけど」

 風呂敷を開きながら答える。
 するとコマは、嬉しそうに荷物を覗き込んだあと、ふと思い出したように顔を上げた。

 「これから奈津様は、ずっとここにいるんですよね?」

 「え?」

 「だって、紫鬼様のお嫁さんになるんでしょう?」

 「ち、違うの」

 奈津は慌てて首を振った。

 「あくまで仮のお話だから……」

 「そうなんですか?」

 コマは残念そうに耳を垂らす。
 その様子に苦笑しながら、奈津はふと尋ねた。

 「そういえば……コマは、紫鬼様ととても親しいのね」

 「あっ」

 今度は耳が勢いよく立った。

 「奈津様には、まだ言ってませんでしたね」

 「?」

 「ぼく、紫鬼様の使役獣なんです」