次の瞬間、その甘やかな空気に鋭く亀裂が入った。
「随分と都合のいい話だな」
紫鬼の声だった。
淡々とした口調なのに、場の空気が一変する。
誰もが無意識に息を詰め、綾乃の笑みが僅かに強張った。
「……紫鬼様?」
「俺が見つけた時、こいつは後ろ手を縄で縛られていた」
正臣と明美の表情が変わった。
「自ら姿を消した人間が、自分で縛ったとでも?」
「それは……」
綾乃が言葉に詰まる。
すると、明美が堪えきれないように声を上げた。
「あなたにも、何か原因があったんじゃないの!?」
「……お義母様?」
「綾乃が、理由もなくそんなことをするはずないわ」
明美は娘を庇うように、その肩へ手を添えた。
「昔からあなたは、綾乃のことを虐めてばかりいたでしょう。今回だって、何かこの子を追い詰めるようなことをしたんじゃないの?」
「……私が?」
奈津の胸の奥が、すっと冷えた。
まただ。何をされても、最後には自分が悪かったことにされる。
昔から、ずっとそうだった。
「それで?」
紫鬼の声に、明美が息を呑む。
「仮にそうだとして、それがこいつを結界の森へ捨てる理由になるのか」
「そ、それは……」
「なら、関係ない」
短く言い切られた途端、明美は息を呑んだ。
それ以上、言葉を重ねることもできない。
まるで声ごと封じられたように、ただ紫鬼を見つめることしかできなかった。
奈津は隣に座る紫鬼へ視線を向けた。
怒鳴ったわけでも、声を荒らげたわけでもない。
それなのに、たった一言で明美を黙らせてしまった。
奈津を長い間縛りつけてきた明美の言葉が、紫鬼の前ではまるで力を失ってしまったようだった。
「……奈津」
正臣が険しい顔で口を開く。
「本当に、綾乃と宗一くんに連れていかれたのか?」
「はい」
奈津は父を見返した。
「宗一さんと綾乃に連れていかれて、後ろ手を縛られました。そのまま、結界の内側に置いていかれたんです」
正臣は苦々しげに眉を寄せた。
けれど、娘の無事を喜ぶ言葉はやはり出てこなかった。
「……この件については、あとで詳しく話を聞く」
そう言うと、正臣は紫鬼へ頭を下げる。
「紫鬼様。家の者がお見苦しいところを――」
「構わない」
正臣の言葉が止まった。
「俺も、この家の内情を問いに来たわけじゃない」
「では……?」
紫鬼は、そこで初めて奈津へ視線を向けた。
「こいつは、俺の花嫁候補だ」
客間が、しんと静まり返った。
紫鬼の後ろに控えていた九重だけが、わずかに目を細める。
「……花嫁、候補……?」
綾乃の掠れた声が落ちる。
「お姉様が……紫鬼様の?」
正臣も明美も、言葉を失っていた。
紫鬼は答えなかった。
綾乃の顔から、血の気が引いていく。
ほんの少し前まで、何の価値もない娘を見るようだった家族の目が、紫鬼のたった一言で変わっていた。
堂目道家でも感じていたその言葉の重みが、今は改めて身に染みた。
「このまま屋敷へ戻る」
紫鬼が告げる。
「必要なものがあるなら、まとめて持ってこい」
「……はい」
奈津は立ち上がった。
正臣も明美も、引き止めなかった。
一礼し、客間をあとにする。
最後に見えた綾乃の顔は、見たこともないくらい蒼白だった。
「随分と都合のいい話だな」
紫鬼の声だった。
淡々とした口調なのに、場の空気が一変する。
誰もが無意識に息を詰め、綾乃の笑みが僅かに強張った。
「……紫鬼様?」
「俺が見つけた時、こいつは後ろ手を縄で縛られていた」
正臣と明美の表情が変わった。
「自ら姿を消した人間が、自分で縛ったとでも?」
「それは……」
綾乃が言葉に詰まる。
すると、明美が堪えきれないように声を上げた。
「あなたにも、何か原因があったんじゃないの!?」
「……お義母様?」
「綾乃が、理由もなくそんなことをするはずないわ」
明美は娘を庇うように、その肩へ手を添えた。
「昔からあなたは、綾乃のことを虐めてばかりいたでしょう。今回だって、何かこの子を追い詰めるようなことをしたんじゃないの?」
「……私が?」
奈津の胸の奥が、すっと冷えた。
まただ。何をされても、最後には自分が悪かったことにされる。
昔から、ずっとそうだった。
「それで?」
紫鬼の声に、明美が息を呑む。
「仮にそうだとして、それがこいつを結界の森へ捨てる理由になるのか」
「そ、それは……」
「なら、関係ない」
短く言い切られた途端、明美は息を呑んだ。
それ以上、言葉を重ねることもできない。
まるで声ごと封じられたように、ただ紫鬼を見つめることしかできなかった。
奈津は隣に座る紫鬼へ視線を向けた。
怒鳴ったわけでも、声を荒らげたわけでもない。
それなのに、たった一言で明美を黙らせてしまった。
奈津を長い間縛りつけてきた明美の言葉が、紫鬼の前ではまるで力を失ってしまったようだった。
「……奈津」
正臣が険しい顔で口を開く。
「本当に、綾乃と宗一くんに連れていかれたのか?」
「はい」
奈津は父を見返した。
「宗一さんと綾乃に連れていかれて、後ろ手を縛られました。そのまま、結界の内側に置いていかれたんです」
正臣は苦々しげに眉を寄せた。
けれど、娘の無事を喜ぶ言葉はやはり出てこなかった。
「……この件については、あとで詳しく話を聞く」
そう言うと、正臣は紫鬼へ頭を下げる。
「紫鬼様。家の者がお見苦しいところを――」
「構わない」
正臣の言葉が止まった。
「俺も、この家の内情を問いに来たわけじゃない」
「では……?」
紫鬼は、そこで初めて奈津へ視線を向けた。
「こいつは、俺の花嫁候補だ」
客間が、しんと静まり返った。
紫鬼の後ろに控えていた九重だけが、わずかに目を細める。
「……花嫁、候補……?」
綾乃の掠れた声が落ちる。
「お姉様が……紫鬼様の?」
正臣も明美も、言葉を失っていた。
紫鬼は答えなかった。
綾乃の顔から、血の気が引いていく。
ほんの少し前まで、何の価値もない娘を見るようだった家族の目が、紫鬼のたった一言で変わっていた。
堂目道家でも感じていたその言葉の重みが、今は改めて身に染みた。
「このまま屋敷へ戻る」
紫鬼が告げる。
「必要なものがあるなら、まとめて持ってこい」
「……はい」
奈津は立ち上がった。
正臣も明美も、引き止めなかった。
一礼し、客間をあとにする。
最後に見えた綾乃の顔は、見たこともないくらい蒼白だった。

