奈津は自ら《結界の森》に入り、姿を消した。
綾乃と宗一が口裏を合わせたその証言を、疑う者はいなかった。
そのため九条家では、奈津はもう生きてはいないものとして扱われていた。
「まったく……面倒な真似をしてくれたものだ」
正臣が、苛立たしげに眉を寄せる。
その口から出たのは、娘の安否を案じる言葉ではなかった。
「久世家は、結納金を返せなどと言ってこないだろうな」
綾乃は向かいに座ったまま、涼しい顔をしていた。
久世家は、前当主の代から家勢が傾きつつある。
今回の結納金も、かなり無理をして用意したものだと聞いていた。
だからこそ正臣は、奈津との婚姻がなくなった今、返還を求められることを気にしているのだ。
「結納金のことでしたら、ご心配には及びませんわ」
綾乃は湯呑みを置いた。
「宗一さんは、返還を求めるつもりはないと仰っていました」
「本当か?」
正臣の表情が、目に見えて明るくなる。
「ええ。ただ――お姉様との婚姻がなくなったあとも、九条家とは変わらぬお付き合いを続けていきたい、と」
「そうか。それなら問題ない」
正臣は満足そうに頷いた。
「久世家との縁そのものが切れないのなら、こちらとしても都合がいい」
「ええ」
綾乃もにこりと微笑んだ。
もちろん、それもすべて綾乃が仕向けたことだった。
奈津を結界の森へ捨てる前。宗一には、こう囁いた。
『お姉様がいなくなっても、私が九条家とのご縁を繋いで差し上げます』
久世家にとって、九条家との縁は手放したくないはずだ。
『もしかしたら、その先には……別のご縁だってあるかもしれませんものね?』
そう匂わせれば、宗一は奈津を捨てる計画に手を貸した。けれど。
(私が宗一さんと結婚するわけないじゃない)
宗一は見目もよく、祓い師としての腕もある。
けれど、傾きかけた久世家に嫁ぐほど、綾乃は自分を安く見積もってはいなかった。
それに――宗一は、奈津から奪うからこそ魅力的だった。
お姉様が大切にしているものを、自分のものにする。
その瞬間こそが、綾乃にとって何より愉快だった。
宗一自身が欲しかったわけではない。
奈津がいなくなった今となっては、その興味も急速に薄れている。
(私には、もっとふさわしい方がいるもの)
自分は、九条家でも類を見ないほど強い《浄化の力》を持っている。
父も、周囲の者たちからも、何度も言われてきた。
綾乃ならば、きっと高位の妖から望まれるだろう、と。
ならば、どうしてわざわざ人間の男で妥協しなければならないのか。
脳裏に浮かんだのは、あの日、町で見かけた白銀の髪だった。
堂目道家当主――紫鬼。
人ならざるほど美しく、ただ歩くだけで人々が道を空ける鬼。
あれほどの相手こそ、自分にふさわしい。
そんなことを考えていた、その時。
廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった。
「旦那様!」
使用人が慌ただしく部屋へ入ってくる。
「何事だ」
「堂目道家より、先触れが参りました」
「……堂目道家?」
正臣が目を見開く。
綾乃も、反射的に顔を上げた。
「はい。本日夕刻、ご当主の紫鬼様がこちらへお越しになるとのことです」
「……紫鬼様が?」
胸が、大きく跳ねた。
聞き間違いではない。
紫鬼本人が、この九条家へやって来る。
「どうして堂目道家のご当主が、うちへ……」
正臣もさすがに戸惑いを隠せない。
けれど綾乃の胸には、すぐにひとつの考えが浮かんだ。
(もしかして――)
あの日、町で紫鬼を見かけた。
もしかすると、向こうも自分を目にしていたのではないか。
それに、綾乃の《浄化の力》は妖の間にも知られ始めている。
堂目道家は、これまで一度も人間の花嫁を迎えたことがない。
紫鬼自身も、持ち込まれた縁談をすべて断ってきたという。
(でも、私なら……?)
これまでの娘たちでは、紫鬼の心を動かせなかっただけ。
自分ほど強い浄化の力を持つ娘なら、話は別なのかもしれない。
「綾乃」
明美が弾んだ声を上げる。
「もしかしたら……あなたにお話があるのではなくて?」
「まあ、お母様ったら」
口ではそう返しながらも、綾乃は頬が緩むのを抑えきれなかった。
正臣も綾乃へ視線を向ける。
「あり得ない話ではないな」
その一言で、胸の期待はますます膨らんでいく。
(きっと、そうだわ)
自分の評判が、紫鬼の耳にも届いたのだ。
そしてとうとう――自分を求めに来た。
綾乃と宗一が口裏を合わせたその証言を、疑う者はいなかった。
そのため九条家では、奈津はもう生きてはいないものとして扱われていた。
「まったく……面倒な真似をしてくれたものだ」
正臣が、苛立たしげに眉を寄せる。
その口から出たのは、娘の安否を案じる言葉ではなかった。
「久世家は、結納金を返せなどと言ってこないだろうな」
綾乃は向かいに座ったまま、涼しい顔をしていた。
久世家は、前当主の代から家勢が傾きつつある。
今回の結納金も、かなり無理をして用意したものだと聞いていた。
だからこそ正臣は、奈津との婚姻がなくなった今、返還を求められることを気にしているのだ。
「結納金のことでしたら、ご心配には及びませんわ」
綾乃は湯呑みを置いた。
「宗一さんは、返還を求めるつもりはないと仰っていました」
「本当か?」
正臣の表情が、目に見えて明るくなる。
「ええ。ただ――お姉様との婚姻がなくなったあとも、九条家とは変わらぬお付き合いを続けていきたい、と」
「そうか。それなら問題ない」
正臣は満足そうに頷いた。
「久世家との縁そのものが切れないのなら、こちらとしても都合がいい」
「ええ」
綾乃もにこりと微笑んだ。
もちろん、それもすべて綾乃が仕向けたことだった。
奈津を結界の森へ捨てる前。宗一には、こう囁いた。
『お姉様がいなくなっても、私が九条家とのご縁を繋いで差し上げます』
久世家にとって、九条家との縁は手放したくないはずだ。
『もしかしたら、その先には……別のご縁だってあるかもしれませんものね?』
そう匂わせれば、宗一は奈津を捨てる計画に手を貸した。けれど。
(私が宗一さんと結婚するわけないじゃない)
宗一は見目もよく、祓い師としての腕もある。
けれど、傾きかけた久世家に嫁ぐほど、綾乃は自分を安く見積もってはいなかった。
それに――宗一は、奈津から奪うからこそ魅力的だった。
お姉様が大切にしているものを、自分のものにする。
その瞬間こそが、綾乃にとって何より愉快だった。
宗一自身が欲しかったわけではない。
奈津がいなくなった今となっては、その興味も急速に薄れている。
(私には、もっとふさわしい方がいるもの)
自分は、九条家でも類を見ないほど強い《浄化の力》を持っている。
父も、周囲の者たちからも、何度も言われてきた。
綾乃ならば、きっと高位の妖から望まれるだろう、と。
ならば、どうしてわざわざ人間の男で妥協しなければならないのか。
脳裏に浮かんだのは、あの日、町で見かけた白銀の髪だった。
堂目道家当主――紫鬼。
人ならざるほど美しく、ただ歩くだけで人々が道を空ける鬼。
あれほどの相手こそ、自分にふさわしい。
そんなことを考えていた、その時。
廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった。
「旦那様!」
使用人が慌ただしく部屋へ入ってくる。
「何事だ」
「堂目道家より、先触れが参りました」
「……堂目道家?」
正臣が目を見開く。
綾乃も、反射的に顔を上げた。
「はい。本日夕刻、ご当主の紫鬼様がこちらへお越しになるとのことです」
「……紫鬼様が?」
胸が、大きく跳ねた。
聞き間違いではない。
紫鬼本人が、この九条家へやって来る。
「どうして堂目道家のご当主が、うちへ……」
正臣もさすがに戸惑いを隠せない。
けれど綾乃の胸には、すぐにひとつの考えが浮かんだ。
(もしかして――)
あの日、町で紫鬼を見かけた。
もしかすると、向こうも自分を目にしていたのではないか。
それに、綾乃の《浄化の力》は妖の間にも知られ始めている。
堂目道家は、これまで一度も人間の花嫁を迎えたことがない。
紫鬼自身も、持ち込まれた縁談をすべて断ってきたという。
(でも、私なら……?)
これまでの娘たちでは、紫鬼の心を動かせなかっただけ。
自分ほど強い浄化の力を持つ娘なら、話は別なのかもしれない。
「綾乃」
明美が弾んだ声を上げる。
「もしかしたら……あなたにお話があるのではなくて?」
「まあ、お母様ったら」
口ではそう返しながらも、綾乃は頬が緩むのを抑えきれなかった。
正臣も綾乃へ視線を向ける。
「あり得ない話ではないな」
その一言で、胸の期待はますます膨らんでいく。
(きっと、そうだわ)
自分の評判が、紫鬼の耳にも届いたのだ。
そしてとうとう――自分を求めに来た。

