「昨夜は、浄化の力を使わなかったそうだな」
九条家当主である父・正臣の声に、奈津は急須を傾ける手をわずかに止めた。
「ええ」
綾乃は涼しい顔で返答する。
「もう手遅れのようでしたし。それに私、この力を安売りするつもりはありませんもの」
「それでいい」
正臣は満足そうに頷いた。
「お前ほどの浄化の力を、名もない低級妖に浪費する必要はない」
奈津の指先が、急須の柄を強く握る。
「何をぼうっとしているの」
継母の明美から、冷ややかな声が飛んだ。
「給仕くらい、まともにできないの?」
「……申し訳ありません」
奈津は俯き、再び茶を注ぎに回った。
正臣は何事もなかったように、箸を進めている。
三人が囲む膳には、炊きたての白米に焼き魚、湯気を立てる汁物、色鮮やかな煮物が並んでいる。
同じ九条家の娘でありながら、奈津の席はそこにはない。
奈津に許されているのは、こうして家族の食事の傍らに立ち、給仕をすることだけだった。
ふわりと漂ってきた焼き魚の香ばしい匂いに、きゅう、と腹の奥が縮む。
今日はまだ、湯で薄めた僅かな粥しか口にしていない。
朝早くから働き始める前に、流し込むように食べただけだ。
「……お姉様?」
綾乃の声に、奈津は我に返った。
いつの間にか、膳へ視線を向けてしまっていたらしい。
綾乃が箸を置き、くすりと笑う。
「お腹が空いたの?」
「え……」
「そんなにじっと見て。まるで乞食みたい」
奈津の頬が熱くなった。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「あら、謝らなくてもいいのよ」
綾乃は優しげに微笑んだ。
「そうだ。私のを分けてあげる」
「……え?」
綾乃が煮物をひとつ箸で摘まむ。
けれど――。
ぽとり。
それは奈津の足元へ落ちた。
「……っ」
「ほら」
綾乃は何でもないことのように微笑む。
「お姉様には、これでも十分ご馳走でしょう?」
奈津は、床に転がった煮物を見つめた。
拾えば、本当に乞食のようだ。
それでも、空腹の腹には惜しいと思ってしまう。
正臣も明美も、何も言わなかった。
「綾乃」
正臣が、何事もなかったように口を開いた。
「お前も、そろそろ婚姻の申し込みが来る頃だな」
綾乃の顔が、ぱっと華やぐ。
「これだけ強い浄化の力を持っているんだ。さぞ格の高い妖家から声がかかるだろう」
「ええ。あなたなら、九条家に素晴らしい縁をもたらしてくれるわ」
明美も嬉しそうに頷いた。
「まあ、お父様もお母様も」
楽しげな三人の声が続く。
奈津はその傍らで、床に落とされた煮物を見つめていた。
――浄化の力。
それさえあれば。自分も、あの輪の中にいられたのだろうか。

