あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 夜刀の動きが止まる。
 奈津が振り向くと、少し離れたところに紫鬼が立っていた。

 「紫鬼様」

 夜刀は大太刀を構えたまま、紫鬼を見る。

 「これはどういうことです。なんで人間がここにいるんですか」

 「俺が置いた」

 「……紫鬼様が?」

 初めて、夜刀の顔に明らかな動揺が浮かんだ。

 「ああ」

 「コマを元に戻したって話も、本当なんですか」

 「本当だ」

 紫鬼は迷いなく答えた。
 夜刀の視線が、再び奈津へ向く。

 「……だったら、なおさら訳が分からねぇ」

 「夜刀」

 紫鬼の声音が低くなる。

 「二度は言わん」

 しばし、張り詰めた沈黙が続く。
 やがて夜刀は舌打ちし、大太刀を下ろした。

 奈津の喉元から刃が離れる。
 夜刀は大太刀を背へ戻しながら、紫鬼へ向き直る。

 「……理由をお聞きしても?」

 「こいつには、癒し子の可能性がある」

 「……癒し子?」

 夜刀の目が見開かれた。
 傍らでコマだけが、不思議そうに首を傾げている。

 「本気で言ってんですか?」

 「確定ではない。だが、異形化したコマを元に戻したのは事実だ」

 夜刀はしばらく奈津を睨んでいた。

 「……癒し子なんざ、昔話の中だけだと思ってましたけどね」

 「俺もだ」

 「だから、正体を確かめるまでここに置くと?」

 「ああ」

 夜刀は不満げに眉を寄せたものの、やがて大太刀を背へ戻した。

 「……分かりました。紫鬼様がお決めになったことなら」

 そして奈津を鋭く睨む。

 「ただし、妙な真似をしたら容赦しねぇ」

 「夜刀」

 紫鬼の声が低く落ちる。
 夜刀はちらりと紫鬼を見た。

 「……分かってますよ」

 そう言い残し、夜刀は奈津の横を通り過ぎていった。
 その姿が廊下の向こうへ消えた途端、奈津の膝から力が抜けた。

 「……っ」

 その場にへたり込むように座り込み、浅く息を吐く。

 「奈津様!」

 コマが慌てて駆け寄った。

 「大丈夫ですか!? どこか切られてませんか?」

 「だ、大丈夫……」

 奈津は震える手で喉元へ触れる。

 刃は触れていない。
 それでも、あの冷たい切っ先がまだそこにあるような気がした。

 「ごめんなさい……」

 コマの耳がしゅんと下がる。

 「ぼくがもっと早く夜刀様が戻ってくるって気づいてたら……」

 「コマが謝ることじゃないわ」

 「でも……」

 「庇ってくれたでしょう?」

 奈津はまだ震えの残る声で、それでも笑った。

 「ありがとう」

 「……はい」

 下がっていた耳が、少しだけ持ち上がる。
 そんな二人を、紫鬼は黙って見ていた。
 やがて奈津へ向き直る。

 「夜刀の言葉は気にするな」

 「……え?」

 「あれは人間を信用していない」

 紫鬼は淡々と言う。

 「長く生きる妖たちの間では、人と妖が争っていた頃のわだかまりが、今も完全には消えていない。中でもあれは、人間への不信が強い」

 奈津は先ほどの夜刀の目を思い出した。
 あの敵意は、奈津個人へ向けられたものではなかったのかもしれない。

 「だが、俺の命令には背かん。妙な真似をしなければ、手を出すこともない」

 「……はい」

 安心した、とまでは言えない。
 それでも少なくとも、紫鬼の言葉がある限り、夜刀がいきなり刃を向けてくることはないのだろう。
 奈津はようやく、浅く息を吐いた。